アオイトリ
□]〜青い鳥・Side茅乃〜
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――ぎゅっと目を閉じた。
浮かぶのは、これまでの色々な彼の表情。思えば、そんなに長い間でもなかったのに、自分でも驚くくらいの記憶が溢れ出す。
はにかんだ、なんの裏もない少年のような笑顔が一番好きだった。
私に触れるときの、男の顔も、何もかもを胸の奥に焼き付けて、瞳を開く。
ためらいは、もうなかった。
作ったような笑みを向ける、香坂くんを見据えて、答えを出す。
「お断りするわ」
刃の鋭さを以て拒絶する。
受け入れるわけには行かなかった。受け入れられなかった。
くっと目の前の男の子が唇を歪めて嘲笑う。
「スキャンダルにまみれても良いと」
「この際仕方がないんじゃない。契約は今回のことで御破算だし、関係を続ける理由も、義理もないもの」
あえて素っ気ない声音で告げる。
――だから、退いてちょうだい。
私を好きだと言う、その言葉が本当なら、こんなことで一時手に入れても、なんにもならないなんてこと、君は十分わかっているんじゃないの。
「一年も肌を重ねた相手に、冷たいものですね?」
「情報を手にしたなら知っているでしょう、そもそもが無理矢理の関係よ」
そんな相手を、どうして私が守らなきゃならないの。
そう嘯く内容を、信じてくれたらいい。
「あの男の言うなりにはなったのに」
「対象が対象だったもの」
「――どちらの意味で?」
ふっと吐息のような笑いを漏らし、私を囲い込んでいた彼の腕が解ける。
だけどまだ、肩の力は抜けなかった。
香坂くんの武器はその聡明さ。こちらの隙を捕らえて、的確に突いてくる。
再びの油断はもう出来ない。
「あの男が破滅しても構わないのか――それとも、信じているのか、判断に迷うところですが」
一瞬、跳ねた鼓動に、気づかれていなければいい。
私は無言を貫いた。
「残念。なら、取引はあちらとするべきかな。いくらで買い取ってもらえると思います?」
飄々とした態度で、メモリを弄ぶ彼からは、本気が感じられなかった。少なくとも、私を追い詰めようとしたときのようには。
「無駄だと思うけれど」
私は眉をひそめる。
お金を受け取るどころか香坂くんの身の方が心配だ。あちらは無尽蔵な権力と財力、人員がある。
大企業ともなれば脅迫なんて珍しくもないだろうし、そういった処理をする部署もあるはず。
私たちの関係だって、文書を交わしたわけでもなく、互いの口約束というか、了解で成り立っていたのだ。
香坂くんが握った情報がどんなかたちになっているのか、わからないけれど――注意を払っていたはずなのに、どこから漏れたのかしら? ――シラを切り通せば、どうってことない。
ただ、ゴシップを扱う情報誌に載ったりすれば、悪印象は免れないし、そういった揉め事を起こしたということで、理事長に何らかの責務が生じることは免れない。
さっきまでは、別の者の醜聞を無かったことにしようと骨折っていたのに、当人の醜聞が広まることになるなんて、皮肉だ。
だけど。
「――どうします? 考え直しました?」
まるで私の迷いを読み取ったかのように、香坂くんがもう一度訊ね直す。
動揺を押し殺して、いいえ、と心を立て直す。
「……やっぱりムカつくな、あの男」
ボソリ、と少年らしく感情に任せた声音で呟いたあと、私を見据えた。
「俺が、生徒でなければ、少しは貴女に近付くことは出来た? 気持ちを受け取ってもらえる、余地はあった?」
さっきまでの皮肉めいたところは一切なく、真摯に答えを求める瞳に、私は気づいたら首を振っていた。
香坂くんが生徒じゃなくて。
年齢も、さほど離れてもなくて。
こんな風に、想いを告げられるのでは、なかったら。
――もし、なんて、なかったことで答えを出すのは好きじゃないけれど、もう、私は知っているから。
たとえどんな状況で、どんな立場だったとしても。
「あの人以外、無理だわ」
はっきりと答えを出した私に彼は、ムカつく、とどこかへ向かって悪態をついてからため息を吐き出した。
メモリを胸ポケットに納めて、向き直った彼からは、病んだような空気は払拭されていた。
ああ、終わったんだ、と理解する。
彼の中でどう整理がついたものか、これで、香坂くんは私への思慕を終わらせたのだと、わかった。
「――先生。ずっと好きでした」
辛そうな、だけどどこか清々しいような柔らかい笑みを見せてくれた香坂くんに、私が返せるものは、ひとつしかない。
「……ありがとう」
痛みを隠して、微笑んだ。