新小説軍

□以来の事
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月明かりが少々力不足気味に手元を
照らす夜半、この仕事をするにはやはり
光が足りぬな、とシチロージはあかりを
灯した。
ふと耳に鈴虫の音が微かに届き、年季が
入った小屋のせいか戸の隙間から風が入り込み、今し方灯した火を揺らし、
彼の綺麗に結わえてある髪を撫ぜる。

その空気の鮮麗さは季節が秋頃と
穏やかに教え、今、戦中である事を
失念させる程であった。

いや、頭の中でそうと思うのだから
失念したわけではないか。

笑みをこぼしながらシチロージはまた
作業に戻ろうと腰を落ち着ける。
暫く作業に集中していると

「今、戻った。」

家の入り口が開く音と共に村の見回りに
出ていたカンベエが帰って来た。
主が戻ったとあれば迎えるのが女房の
務めと言わんばかりに反応し、框に
行こうと立ち上がる。
当然のように差し出された刀を受け取り
膝上に乗せた。

「如何でしたか、村は。」
「作業に遅れもない、上々だ。」
「それは何より。」

と、カンベエがじっとシチロージの顔を
見つめる。
別段真剣にと言うわけでもなく
ただジッと、視線は動かず、シチロージだけを見ていた。

「私の顔に何か?」
「お主、何か良い事でもあったか?」
「は?」

質問に質問で返され、尚且つ突然の物言いにシチロージは気の抜けた声を出す。
それが面白かったのかフッと笑うカンベエ。
一体何が面白いのですか、と眉を顰めた視線がカンベエにチクチクと突き刺さり
気分を害してしまったか、と苦笑した。
すまぬ、と言うのは流れのようで
シチロージには全く謝罪されているとは
感じない。
この方は、と溜め息が一つ勝手に漏れた。

「いや、なに随分と穏やかな顔をしていたからな。」

はて、特に何もなかったが…とシチロージは反芻する。
だが一つだけ思う事があった。

「特に良い事…というわけではありませんが、」

滑らせた視線の先には、やりかけの仕事。
カンベエから預かった別の外套だった。
長年使ってきた其れは随分と至る所
要所要所が傷んでおり、侘びしい雰囲気を漂わせていたのだ。
なので[頭が其れでは皆に示しがつきません私が繕いましょう]とシチロージが
カンベエを説き伏せ預かった代物。

丁寧に繕った外套は後少しで主の元へ返せる。

「貴方様のモノを繕う、など大戦以来。」
「確かに。」

大戦の時も、よく隊服を傷めていたカンベエを見かねて、シチロージが預かり
綺麗にして返すのはよくしていた光景。

「其れが、久しく、懐かしく思っていたのですよ。ま、カンベエ様に関わる全ての事が懐かしく、思っても見なかった事ですが。」

離れて幾年も経ち、また出逢うとは
露とも思っていなかった。
だからこそ、今の全てが何もかも
懐かしく、喜ばしい。

遠い昔、遠い空で見た顔と寸分違わぬ表情をした己が副官を見てカンベエはその白磁の肌をした手を取る。
昔とは違う滑らかな手は、其れでも間違いなくシチロージのもの。

「シチロージ…」
「は」
「なれば、此も懐かしく思うか?」

押し当てるだけのつもりだった口付けは
彼の其れに重ねただけで、忘れ。
深いものに変わった。
何も抵抗する事なく反応を返す副官に、頭の何かを痺れさせながら、気付けば彼を組み敷いていた。

「当たり前です。カンベエ様以外を受け入れた事はありません。」
「そうか。」

受け入れた事はないと本人がいうその目は嘘をついているものではない。
だが、同時にカンベエは違う意味合いにもとれてしまい、やはり十年の時は長い、と頭の端で考えた。

「以来なれば、優しくしてやろう。」
「是非ともお手柔らかに御願いします。」

その顔は、カンベエを挑発しているようにも
誘惑しているようにも見える。
だがカンベエは、それがただの虚勢とわかっている。
思い出したのは、初めてシチロージと交わったあの遠い日。
あの時の顔と同じだな、と懐かしさを感じながら彼の首筋に舌を這わせた。






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