abyss
□残された選択肢に否と言えぬ弱さをただ抱きしめる
1ページ/2ページ
死を、迫られている。己を連れて逃げてくれるほどの勇気のある人間はこの世界にはいない。きっと逃げるなら、己はやはり死を覚悟しなければいけないのだろう。
孤独ではなかった、と記憶している。けれど、あまり救いのある人生とは到底言い難い。今だって多くの人に死を望まれて、その通りにしようとしている。
「ルーク」
呼ばれてはっとした。教会のステンドグラスの光に紛れて、マルクト皇帝ピオニー九世が現れる。眩い金髪に、マルクトの象徴である水の色をした瞳。何もかもが彼のためにあるかのようだった。それに引きかえ、己は何とみすぼらしいことか。
「ルーク、なぜ返事をしない。俺に呼ばれるのはそんなに不服なことか?」
子供はそんなことはないとばかりに首を振ったが、ピオニーは不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。
「も、申し訳ありません……」
「畏まらなくていい。今の俺はただのピオニーだ。明日の朝には皇帝に戻るが、今は、お前のためだけのピオニーだ」
「へい、か」
「ピオニー、だ。呼んでみろ」
「で、でもっ……!」
まだ躊躇う子供にピオニーは痺れをきたしたように抱きしめた。優しく、ただ慈しむような抱擁。
「ルーク、呼んでくれないのか」
「あ……うぅ、……ぴ、ぴおにー、…………へいか」
「陛下は余計だ」
「ごめんなさい……」
ピオニーは微かに笑って、ルークの背をぽんぽんと叩いた。少し苛めすぎたとピオニーは一人ごちる。子供はいつでも努力している。いつでも良い結果であるように行動している。だから、本当は、お前はよくやっていると褒めるのが筋だ。少なくともピオニーはそれをできうる限りしてきたつもりだ。他の者たちはそれをやらないから。いや、気づいてもいまい。子供の大罪にしか重きを置かず、ただ責めて、正に生かさず殺さずを実行し続けてきたのだ。今さらそんなことをしようものなら、ピオニー自ら死の断罪をくれてやるところだ。
「ルーク」
「はい、何ですか……?」
「俺は無力だな。お前限定で」
「そんなこと、ないです」
「本当にか?」
「はい、少なくとも、こうやって抱きしめてくれるだけで、俺は満足してます。死んでもいいかって思うくらいには」
ピオニーはくっと瞑目した。やはり、壁は厚いと思う。子供とピオニーの間には身分が存在して、いつも邪魔をする。ピオニーには皇帝というあまりにも強大な権力があるが、その権力が邪魔に思う日が来るとは思いにもよらなかった。まったくの誤算だ。かと言って地位や名誉もなく、この子供と出会えていたかと言われると、実は微妙な話だ。
「俺は結構幸せでしたよ。何も知らないままでいるよりはずっといい。たとえ、俺の存在が揺らいでも、その方がずっと」
もう何も言えなかった。子供はすべての罪悪や悲しみや苦しみも一緒に持って逝くつもりなのだ。被験者という、罪悪の塊を正当化しようとしている。被験者の都合で殺されるのに、納得して諦めている。それを引き戻そうとするには多大な時間と精神力を要する。
「そうか……――それでも俺はお前に生きていて欲しいと願う。これも俺たち被験者のエゴだと分かっていても願わずにはいられない」
一つ息を吐く。子供は身動きしなかった。
「それでも逝くのなら、なあ、ルーク。俺のこの心を持って逝け。皇帝ではないピオニーとしての、この『俺』の心を、な」
抱きしめたままピオニーも身動きしなかった。すべてを明け渡すように、ただ子供を抱きしめていた――。
残された選択肢に否と言えぬ弱さをただ抱きしめる