abyss3

□The god is not here.
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その子供が産まれたのは冷たい試験管の中だった。ゆらゆらと揺れる視界の向こうの人影を見ていた。


『失敗か』

『いえ、音素振動数は同じ完全同位体ですよ。ただ、やはりレプリカですからね。容姿や能力には劣化がありますね』

『まあ良い。最終的に使えれば問題ないのだからな』

『では他のレプリカは』

『処分しろ』


その冷え切った声を子供は聞いていた。だが、あいにく子供にはそれを理解できるだけの知識もなければ怒りを感じるほどに情緒もない。
当たり前だ。子供はたった今、生を受けたばかりの赤ん坊なのだから。ただし、子供の身体は見た目に十歳くらいに見えるのだが。
虚ろの心と身体。子供には何もない。何もないが、呼吸を繰り返し確かに生きていた――。





彼が生を受けて七年目。身代わりの運命は彼に牙を剥いた。


「俺は悪くない」


何度も繰り返した。繰り返すたび、七年間育ててきたはずの心はひび割れ、終いには弾けて飛んだ。何もかもを失って『ルーク・フォン・ファブレ』という名前すら借り物で。


「じゃあ俺って何なんだよ。俺はどうしたらいい?」


答えをくれる人間など一人もいない。当たり前だ。彼は人間ですらない。
彼の絶望は深く根を張り、少しずつ闇を広げていった。
誰にも理解されない苦しみや悲しみ、理解されないことへのわずかな安堵とどうしようもない恐怖。


「なあ、パンドラの箱の話、知ってるか」

「おや、ずいぶんロマンのある話題ですね」


アクゼリュス崩落から同行者たちと距離を置いているルークだったが、それでもずっと一人部屋というわけでもなく、今日はジェイド・カーティスと同室だった。


「俺が読み書きできるようになって初めて読んだ本がパンドラの箱の話だった」


ジェイドは今度は茶化さずにルークの話を聞いていた。ルークはぼんやりと窓の外を眺めながら続けた。


――最初読んだ時、良い話だと思ってた。最後に希望が残ったから人は生き延びたんだって。あの日までずっと信じてた。
でも、あの日から違うんだって思うようになった。最後に残ったのは本当に希望だったのかって、さ。

――ではあなたは何が残ったんだと思うんです?

――人はパンドラを開けて叡智を手に入れ、代わりに自ら災いを起こした。

――譜術戦争(フォニック・ウォー)のことですか。

――そして人はまた繰り返した。今度は預言戦争(スコア・ウォー)だ。


繰り返してもなお人は罪を犯す。愚かに残酷に、犯した罪の重さにすら気づかず。


「言っておくけどな、二度目にパンドラを開けたのはお前だぞ。自覚あるんだろうな?」


ジェイドは言い訳しなかった。
フォミクリー技術は決して開けてはならないパンドラの箱。一度開けてしまえば災いは広がり、哀れな生命を生み出し続け、人はその生命を忌み嫌い、殺し続ける。それは間違いなくジェイド自身が蒔いた種で、もう芽吹いて摘み取ることもできなくなってしまった。
一つまばたきしたジェイドを不意に見やったルークは、しかし何も言わずに窓に視線を戻した。


「『俺たち』には何もない。誇るべきものも、己の意思すら、最初からないんだ」


生まれたばかりの赤子に理解できるのは、それが良いことか悪いことかくらい。きちんと教えてくれなければ、知ることもなく死んでいくのだ。
人間は非道い。傲慢で最低だ。この世に『正しい』ことなんて一つもないのに、それが真実だと叫ぶ。なら『俺たち』はどうしたらいい?


「世界は不公平だ」

「世界は残酷です」

「最低な人間ばかりを救う最低な世界だ」

「ええ、その最低な人間がまたパンドラを開くから世界は希望を一つ、落とすのですよ」


こんな風に、とジェイドはルークを後ろから抱きしめた。ルークは抵抗しなかった。
世界の落とした希望――今のところ、それはルークのことに他ならない。

「あんた、最低だ。そうやって優しくして恩を売ったつもりか?」

「そうだ、と言ったら?」

「質問に質問で返すな、陰険眼鏡――そうだな、じゃあ俺はあんたに恩を売り返すかな」

「どうやって?」

「あんたが今一番言いたい言葉を言ってくれたら教えるよ」


そう言ったルークの表情が泣きそうに見えたのは気のせいか。
ジェイドはルークを上向かせると深く口づけた。やはりルークは抵抗しなかった。それは彼が諦めている証拠なのか、それとも。唇が離れる。ジェイドとルークの視線が合って、ルークは睦言のように囁いた。


「人でなし」

「自覚がありますからご心配なく」

「あんたなんかこの世界に生まれなきゃ良かったんだ」

「ええ、過去へ帰れるのなら自分を焼き殺したいですね」

「……――っ」

「どうしました?」


どうして平然とした顔をしてるんだ。今、最低な言葉を吐いたのはルークの方なのに。どうして彼は笑っているんだろう。まるで、ルークになら何を言われても睦言にしか聞こえないとでも言いたげに。


「何で罵らないんだよ」

「ふふ、私の可愛いひと、あなたが愛しいからですよ」

「嘘吐き、最低、人でなしっ……!」


ルークは喚いたけれど、ジェイドはなおその腕で強く抱き寄せたまま笑っていた。
世界は不公平だ。『俺たち』には一つも優しくない。人間にだけ公平なカミサマ。どうして、どうして、どうして!


「残酷で醜い世界だからこそ、人はそこに美しさを求めるのでしょう」

「例えば?」

「音素集合体」

「ローレライが?」

「目に見えぬものですから」

「単に想像ってことだろ」

「だからこそ人は美しいと感じるのです。そこには神秘性がありますから」


カミサマだから神秘的なのか。人は訳が分からない。
ジェイドの腕がより強くルークを抱きしめたと思ったら、彼は鮮やかに笑ってこう言った。


「死んでください、ルーク」


ルークは衝動的に泣きたくなったけれど、泣かなかった。代わりに微笑んで言い返してやった。


「俺を甘やかすくせに俺の願いなんか一つも聞いてくれやしなかった、お前なんか大っ嫌いだ」


透き通っていくルークの身体を抱きしめ損なったジェイドは俯いた。そんなジェイドを見つめながらルークは泣きそうな顔で一言弱音を吐いた。

――しにたくない。

はっとした瞬間にルークは消え去った。
晴れていく空を恨めしく思いながらジェイドは立ち尽くした。

あなたが消えたと思った瞬間の喜びを知ったら、あなたは怒りますか?
あなたが二度と帰ってこないと思った瞬間の悲しみを知ったらあなたは喜びますか?

彼らに生まれた意味が本当にあったのか、価値があったのか、そんなことはどうだっていい。『生きていた』という事実さえあればいい。ただそれだけで、人の心に一石を投じることができる。ジェイドはただ心を空っぽにしてすべてを受け入れた……――空はどこまでも青く、束の間の平穏を演出していている。










(嵐の前の静けさ)
(縋るべき希望を喪った人間がどうするのか?)
(私は当面隠れることにしましょう)
The god is not here.










――――――――――
ゆず様への献上品、土下座。

終わり。
かなりごった煮状態。
人称もばらばらで読みにくいことこの上ない……ガクリ。
『俺は道具でも玩具でもない』というブログで短時間上げてたものを改題して書き直したものですが、どっちかっつーとこれはジェイドのお話になってしまいました……ごめんなさい。
ついでに元のやつもリンク貼っておくのでそちらもどうぞ、土下座。

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