treasure

□時が止まった瞬間
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 王位継承争いが始まる約一年前。藍楸瑛は、藍家当主である兄三人と共に貴陽の紅区に建つと
ある邸を訪れていた。





時が止まった瞬間




                   
「秀麗ちゃん、いらっしゃい。今日は何をお探しだい?」

 小さな少女が店先で店主と親しげに話しているのを、楸瑛は少し離れた場所から見ていた。
 紅秀麗という名の、七つの少女。三つ子の兄達が別人のような変貌ぶりで慕っていた、邵可と
いう紅本家長兄とは思えない程に穏やかな人物の一人娘。兄達や楸瑛に、お茶と饅頭を振る舞っ
てくれた。華美ではないが温かみのあるそれは初めて食べた味で、けれどとても美味しくて兄達
も大絶賛していた。少女の手作りだと邵可が自慢げに言ったのを聞いて、少女を誉め千切りなが
らその小さな頭を撫でていたのは記憶に新しい。
 楸瑛も感心していたのだが、しかしそれよりも衝撃が大きかった。
 紅家直系の姫が、饅頭作り。
 しかも他に炊事洗濯までしているらしい。現在は視界の端で大根を値切っている。
名門彩七家筆頭二大柱の邸とは思えない有り様と家人の少なさにも驚いたが(何せ家人は少年一
人らしい)、それ以上の衝撃だった。
 楸瑛の知る姫君達は、侍女に囲まれ、邸の中でたおやかに笑っていた。それは秀麗と同じくら
いの年齢の子供も同じで、現に楸瑛の腹違いの妹達もそんな風に日々を送っている。
 邵可の妻は数年前に先立ってしまったらしいが、それが何か関係するのだろうか。

「楸瑛様、お待たせしましたっ」

 あどけない童女が大根を抱えながら走り寄って来る。ほくほくとしたその様子を見るに、どう
やら値切り闘争で勝利したらしい。
 楸瑛は苦笑すると、小さな腕から大根を抜き取り片腕で抱えている荷物の中に加えた。

「あっ」

 取り返そうと延び上がる秀麗にまた一つ苦笑して、しゃがんで視線を合わせる。
 滅多にしない動作は何だか新鮮だった。

「駄目だよ、秀麗姫。私に持たせて。君に持たせてしまったら私が兄達に叱られてしまう」
「〜〜〜〜っ」
「秀麗姫」

 駄目押しのように名を呼ぶ。
 すると、小さく丸い肩がかくりと落ちた。

「…はい、分かりました。お願いします、楸瑛様」
「うん、良い子だ」

 頭を撫でて、素早くその空いている片腕を秀麗の膝裏に滑り込ませる。力を入れて立ち上がる
と、可愛らしい悲鳴が聞こえた。

「きゃあっ」
「これでお買い物は終わりかい?」
「は、はい」
「じゃあ帰ろうか。兄上達も邵可様も、きっと首を長くして君を待っているよ」

 楸瑛の前腕に腰かけるように抱え上げられた事に大きな目を白黒させていた秀麗だが、楸瑛の
言葉の表現に首を傾げた。瞳が「長い?」と疑問を湛えている。

「君の帰りを心待ちにしているっていう事だよ」

 ぱちり、と溢れそうな程大きな瞳でゆっくりと一つ瞬いて。次にはにっこりと大輪の向日葵の
ように笑って秀麗は楸瑛の首に齧り付いた。

「わ、っと」

 楸瑛は剣の腕に覚えがある。それに伴い体もしっかり鍛えている為、踏鞴を踏んで揺らいだり
はしない。が、驚いた事には驚いた。

「どうしたんだい、お姫様?」

 微笑みながら寄せられている頬に自分の頬を合わせて、抱き上げている腕を軽く揺すれば明る
く軽やかな笑い声が耳元で聞こえる。
楸瑛がますます笑んで更に頬を寄せれば、秀麗は内緒話のように楸瑛の耳へ囁いた。

「父様も藍のお兄様達も、楸瑛様の事も待ってます。首を長くして、ぜったい!」




日本語46音「20. 時が止まった瞬間」from星屑の海。

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