薄花桜に囚われたままの愛と哀と藍と

□act.01 春愁のエトランゼ 01
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小さい頃は、父親が監督を務めていた劇団が格好の遊び場で、よく姉と一緒に父親がいる寮に遊びに行っていた。
姉と一緒に父親や劇団員の人たちの真似をしてお芝居をしてみたりと2人とも父親に似たのか、芝居が好きな姉妹だった。

中学生になった姉は演劇の道に進んだが、私は小さい頃からアニメやゲームが大好きで、父や姉と違えど同じ表現者として声優という道へ進むことを決めた。

家族の応援もあり、16歳でデビュー出来たものの、現実はそう甘くはなかった。
役のオーディションに受けては落ちるの繰り返し。
ちょこちょことゲームのお仕事は貰えていたものの、夢見ていたキラキラとした世界では全くなかった。
新人の私に出来ることは、とにかく場数を踏んで実力を身に付けるしかない。

そんな伸び悩んでいた18歳の時に、私に転機が訪れた。

初めての18禁PCゲームの出演。所謂エロゲーと呼ばれるゲームのお仕事。
脇役だがほんの少しだけエッチなシーンがあると知って戸惑っていたところにマネージャーから「ギャルゲーの延長線だと思って。これも経験だよ」と後押しされ出演することになった。

恋愛シミュレーションの収録の時によくやっていた手の甲を使ってリップ音を出すことさえ最早ぎこちなく、喘ぎ声を出した時はもうそれはそれは顔から火が出るんじゃないかと思うくらい恥ずかしかった。

初めて出たエロゲーの作品がヒットし、ファンディスク、コンシューマ化、アニメ化と瞬く間に展開していき、気付いたら仁科さつき名義の仕事よりも裏名義の小泉桃花での仕事ばかりになっていった。

『っん…あっ…だ…だめ…っ…そこ…感じちゃう…からっ…んあっ…』

小さな部屋の中にマイク1本、手には台本を握り、ただひたすらマイクに向かって喘ぐ。

今回は18禁ブラウザゲームの追加シナリオの収録のため収録現場にきていた。
新規のボイス収録とは違い、短時間で気持ちをエッチな方向に持っていかないといけない。

マイク越しに見える少し年季の入った白い壁を見つめ、昨日勉強するために見たAVのこと思い出す。
小手先のテクニックしか持たない自分が考えた精一杯の対策という名の秘策であった。

『あっあっ、んっやら、いっちゃう、からっ…あんっ……』

横には私の方からは見えないようになっているマジックミラーの鏡。
ブースと呼ばれるこの空間には私しかおらず、エッチなシーンが進めば進むほどブース内に異様な空気が流れるこの異質な空間。
ヘッドフォンからは自分の喘ぎ声と淡々と仕事をこなす監督からの指示の言葉が繰り返し反響していた。


「はい、最後のセリフもオッケーです。
それじゃあ仁科ちゃん、お疲れさまでした」
「ありがとうございます!お疲れさまでした!」

ヘッドフォン越しに会話をし、後片付けをしてブースの外に出る。
ブースの外に出れば、さっきまでの異質な空間とは違い、とても明るく、一般企業の会社の雰囲気とさして変わらない。
周りの大人たちは、それぞれ自身の仕事を黙々とこなす職人たちである。エッチなシーンを演じて悶々としていたのは自分だけで、毎度ながらこの温度差が気恥ずかしくてもどかしい。

プロの声優として、演じ終わったらきちんと切り替えなくては!と、いつも脳内でひとり反省会が開催されるのだった。

「仁科ちゃん、お疲れさま。
これから事務の仕事だって聞いたけど時間大丈夫そう?」
「渋谷監督お疲れさまです!
そうです!今日13時出社で、ここから電車で15分程度なので大丈夫です」
「それは良かった。しかしまあ昔の仁科ちゃんから比べるとリテイク少なくなったね。
ほんと若い子の成長は早いな〜」

音響監督である渋谷さんとはデビュー当時からお世話になっている監督の1人。
私がへこたれずにやってこれているのも、こうした監督さんからかけられる励みの言葉も大きいだろう。


「じゃあ、また一緒に仕事しようね。
それじゃ、お疲れさま」
「ぜひお願いします!
今日はありがとうございました!お疲れさまでした!」

監督や周りのスタッフに挨拶をし、軽く化粧を直してから収録スタジオを出て、もう1つの職場に急ぐ。

一人暮らしの身として、声優としてだけでは食べていけず、派遣として週4くらいのペースで働いている。
最近派遣された職場は一流商社のデスク業務。一流商社とあって給料も待遇もとても良い。
社長や課長も私が声優として働いてることを知っていて、応援してくれているので、急に入った仕事の時も融通を利かせてくれていた。

今、私はとても恵まれているのだ、もっと頑張らないと。


改めて気合いを入れて、社員証をかざして会社に入る。

そういえば今日の夜は新しいプロジェクトを始める相手先との会食だった。
何時だっけ?とスカートのポケットから携帯を取り出して確認をする。

19時半か…仕事が溜まってるだろうから、早速気合いを入れて終わらせないとと携帯のスケジュール表とにらめっこしていたところに、ふと後ろから声をかけられた。


「ねぇ、ポケットからペン落ちたよ」
「えっ? あ、ありがとうございます!」
「いえいえ。それじゃあ」


収録現場で使ったペンをそのままスカートのポケットに入れたままだった。
落ちたところを見られていたなんて、何か恥ずかしい。

拾ってくれた人は茅ヶ崎至さん。
就職2年目らしいが、2年目とは思えない仕事ぶりで、人当たりもとても良い。女性社員だけではなく男性社員からも評価が高いらしい。
そこだけでもう私なんかとは雲泥の差である。

同じフロアだが仕事で関わる機会がなく、すれ違ったら挨拶するくらいだけど、その時ですらもうキラキラした王子様みたいで何とも近寄りがたい。
二次元から出てきたような正統派の王子様みたいな容姿と性格で、きっとモデルさんや俳優さんにもなれそうである。

そんな彼に微笑まれたら死んじゃうと女性社員たちが話しているのを聞いたことがあるけれど、声フェチな私は、あの物腰の柔らかい声で囁かれた方が瀕死の重傷を負って、たちまち流血事件に発展しそうだ。

きっと彼は声優にだってなれてしまう。
そのくらい全てにおいてスペックが高い男性なのだ。
欠点だらけの私とは全然違う。
羨ましくもあるが、到底私には敵わない。
私という人間とは一生関わらない部類の人間なのだ、茅ヶ崎至さんという人は…。


「課長おはようございます。
半休ありがとうございました」
「ああ、おはよう。
今日19時半にB社と会食だから、それまでに仕事終わらせておいてくれよ」
「が、頑張ります!」


今日の会食に茅ヶ崎さんがいるなんて、この時の私は知る由もなかった。



存外すぐに運命は変わるものだ。




2017.08.26.

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