薄花桜に囚われたままの愛と哀と藍と
□act.02 愛の酷薄 21
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仕事を終え、その足でオーディションがある場所まで急いで向かう。
その道中マネージャーから「少年誌のヒロイン役が決まったら、かなりでかいから頑張ってきなさいね!」とLIMEがきており、緊張が高まるのと同時に気合いも入った。
気を緩むと昨日のことや夢のことを思い出してしまいそうになる頭を切り替えるため両頬をパンと叩く。
集合時間の30分ほど前に現場に到着し、控え室に向かうと、セリフなどが書かれた紙をもらい軽い柔軟をしながらセリフに目を通す。
同業者は私を含めて6人ほどで、時間になると1人ひとりスタッフさんから呼ばれ別の部屋に向かう。
私の番が来て部屋の扉を開けると、長テーブルの前に座る5人の男女の姿が見えた。
左から順に軽く一瞥する。すると初めて会う人の中に見知った女性の顔を発見して、ゾクリと背筋が凍った。
「どうぞ椅子にお座り下さい」
「あっ、はい!……失礼します」
どうして、どうして藤浪さんが審査する側でいるんだろうか。
監督や作者などいる中、端に座った妙齢の女性。
声優の大先輩である藤浪さんは私がデビューした頃に度々現場が一緒になり、その現場で会う度に怒鳴られていたことを思い出して急に手足が震えてきた。
藤浪さんは有名な作品にしか出ないから、一緒の現場になることはほとんどない。
すれ違っても軽く挨拶するくらいで、ここ2年ほど、きちんと顔を合わせたことはなかった。
「1度指摘されたら2回目から直すのは当たり前でしょ!」
「鈍臭いから、そうなるんでしょ?
もっと頭使えって言ってんだよ!」
「技術が伴わない顔だけできたやつは邪魔なだけなのよ。
せいぜい私の邪魔だけはしないでよ、足を引っ張ることしかできない新人さん」
自己紹介と簡単な質疑応答の最中でも、頭の中には藤浪さんから言われたことでいっぱいになる。
今は色々経験を積み、昔の自分よりできることが多くなったはずだ。
もうあの頃の私じゃない。だから大丈夫、大丈夫と頭と中で何度も何度も言い聞かせる。
なのにどうして、セリフの紙を持つ手が震えが止まらないの…?
「それでは用紙に書いてあるセリフ5つを読んでもらえますか?」
オーディションの結果は聞くまでもなく散々だった。
いくら緊張する場所でもこんなに噛むことはないし、盛大に読み間違えたりもしない。
いくら苦手な先輩がいたとしても、ここまで動揺する自分が悲しくて惨めだ。
……私生活が原因だなんて思いたくない。
違う、今は関係ない。
同じオーディションに受けた同業者の人たちの会話に入る元気もなく、早く帰ろうとカバンに荷物を詰めていると、控え室の扉がバンと強く開いた音がして、カツンカツンとヒールの音が自分の目の前で止まる。
「あのセリフ読みは何? ふざけに来たの?」
カバンから顔を上げるとそこには蔑むような目で私を見下ろす藤浪さんの姿があった。
急に控え室に入ってきた先輩に、ほかの同業者は驚き会話が途絶える。
「……い、いえ。緊張で…噛んでしまって…」
「緊張?だとしても素人でももっと上手くできるわよ。あなた、この4年で何学んできたの?
裏名義の仕事が多いって聞いて、度胸の一つでもついていたかと思ったけど全然じゃない。
発声はなってない、間の取り方や感情の乗っけ方もてんでダメ。挙げ句の果てには噛み倒して読み間違いのオンパレードって、あなたこの仕事舐めてるの?」
「藤浪さん、そんなに強く言わなくても…」
「部外者は黙って。あなたたちも素人に毛が生えたような演技晒しといて、よくぺちゃくちゃといつまでここにいられるわね。
早く家に帰って練習の1つや2つすることをおすすめするわ」
数人で集まって喋っていた同業者の女の子たちにピシャリと言い放ち、その鋭い目はまた私に向けられる。
「何か言い訳でもある?」
「……い、いえ。私の努力不足、でした」
自然と溢れてくる涙を拭い、すみませんでしたと頭を下げる。
藤浪さんは何も間違ったことは言ってない。
泣いてはダメだと言い聞かせても、なぜか目から溢れる涙を抑えられなかった。
現場でこんなに泣くのはいつぶりだろうか。
いつもダメ出しされても泣くのは現場を離れてからだ。
「……はあ…呆れたわ。本当、数年前から何も変わってないのね」
下げる頭の上から藤浪さんの深いため息と呆れたと呟く低く冷めた声。
「泣けば許されるとでも思ってるの?
甘いわよ。泣いて「そうか、わかった」なんて許される現場ではないの。
それを言われたら許されたんじゃない、何もできない能無しってことで次からは現場に呼ばれなくなるだけ」
言葉がグサリ、グサリと突き刺さる。
泣いている場合ではないと頭でわかっていても、感情は全然言うことを聞いてはくれない。
悔しい、辛い、怖い、悲しい、いろんな感情が全て涙となって落ちていく。
「鈍臭さも少しは抜けてきているのかと思ったら、全然ね。
喘ぐだけの芸当しかできない能無しさんは、もう辞めた方がいいんじゃないかしら。あなたの代わりなんていくらでもいるのよ。
いっそ、AV出た方がそこそこ儲かるんじゃないの?
それと言うまでもないけど、あなたは選考外。不合格よ。
家に帰って身の振り方でも考えるべきね」
涙腺はもうとっくに壊れ、涙は止めどなく流れ続ける。
まるで心が悲鳴をあげているかのように…
カツン、カツンとヒールの音が遠くなり、バタンと扉が閉まる音が聞こえ、部屋は沈黙に支配された。
そしてほんの数分後には「……お、お疲れ様でした」と同業者は口々に部屋を出ていき、誰もいなくなった控え室に響くのはさつきの微かな嗚咽だけだった。
すでにまとめられている荷物を掴み部屋を飛び出した。
ここから出たいという本能がさつきを突き動かす。
混乱する頭では、もうどうしていいか判断がつかず、ただこの場から逃げたいその一心でがむしゃらに走った。
この状況から逃げても意味がないとさつき自身、もう痛いほどわかっている。だが、そう頭では理解していても、感情がそれに伴わないのだ。
どのくらい走ったのか、今ここはどこなのか、靴擦れした足が痛いとふと立ち止まる。
衝動的に走っていた体は立ち止まったことで力が抜けたのか、体はぐらりと傾いた。
手から鞄が落ち、ガシャンと音を立てて携帯がコンクリートの上に投げ出される。
光のない目が音をした先を見つめ、おもむろに携帯を手に取った。
それは無意識だった。携帯のプププッと呼び出し音が微かに聞こえ、さつきは携帯を耳に当てることなく携帯の画面を見つめる。
焦点が合わない目に映るのは、ぼやけた何か。
何回かの呼び出し音が鳴り「もしもし?」と携帯から聞こえてきた声にさつきの目から涙がはらりと溢れた。
さつきの目にはっきりと映った「茅ヶ崎至」の名前と携帯から聞こえた至の声にさつきは込み上げる感情を抑えることができなかった。
「…ごめん、なさい……ごめんなさい」
ごめんなさいと繰り返すたびに喉に走る痛みに顔をしかめた。
その声にならない声が街の雑踏に紛れて至まで届かず、至には車のクラクションやザザッとしたノイズが聞こえ、不審に思ったのか「もしもし?何かあった?」と再度問いかける。
その優しい声音にさつきの震える唇から「…助けて」と少し掠れた声をあげた。
"会いたい"とそう強く願った−−
2017.12.3.