10/09の日記

00:37
Cyanocobalamin-4(終)
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それでは「3」の続きの「4」です。コミケ用に気軽に書いたつもりでも普通に長くなってしまいました。反省。
あと一応「灰夜叉4」の繋ぎとしてもアップしたんですけど、メインディッシュの前にカツドン出したような話でしたね。一応この話は今回で終わって次回「灰夜叉4」のスタートとなりますのでどうかそちらもお付き合いして頂けると助かります。
それでは「Cyanocobalamin」ラストのスタートです!

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「気ぃ付けて帰れよー」
 とりあえず怪我人はそれなりの介抱をして、治療の必要な連中は適切な施設を手配して送り出してやった。私は私で借りた廃工場の後片付けとかもあったので、あらかたの見送りを終えた後はせっせと雑用に勤しんでいた。
 いやあ、すんませんねえ、お騒がせしてしまって。
 工場の設備の跡を見るに、昔は車の機械部品か何かを量産していた工場だろうか。かつて日本の産業を支えていて、多くの人間の生活の基盤となっていただろう労働拠点。ここで生きていただろう人間の顔、家族の数など適当に想像しながら心を込めて掃除させてもらった。
 …ああ、でもどうだろうな。師匠って生粋の日本人だから、こうした外国に媚売って出来たような近代の機械産業ってまだ毛嫌いしているだろうし、あんまり丁重に扱ってもそれはそれで殴られてしまうかもしれない。
 一仕事終えた後にまたあんな化け物と戦ったら、それこそ体が持たないだろう。
 んー、でもやっぱり初手の血抜きが少なすぎたせいか、やっぱり体力的にはまだ余力はあるんだよな。
 血抜きで手抜き、なーんて寒い親父ギャグ以前にそんな適当な修行していることバレたら普通に師匠に怒られてしまう。
 …やっぱり事前に貰っていた塩パンのおかげで多少塩分に余裕の出来る計算外が生まれてしまったのだろうか。
 いつもの自分の体調ならハンデとして千五百ミリリットルと踏んでいたが、この調子だとあと三百は軽くいけたんじゃないかな。そんくらいでやっと連中といい勝負になっていたと思う。
 本当に、悪いことをしたよ。
 あれだけうんこ君…いや、蟹瀬君にイジメの難易度を下げられたことを怒っていた手前、いざ自分も同じようなことをしてたんだから笑えない。
 自分が自分で笑えない。もう一人の私を抜きにしても。
 せめて後でちゃんと蟹瀬君にも謝っておこう。
 …ってそういえばこのマスクも蟹瀬君から借りたものだったな。謝るついでにこんなに血塗れにしてしまったことも言っておかないと。結局ほとんど私の血ばっかになってしまったもんなあ。洗えばちゃんと落ちるかしら。
 汚れを確認しようとマスクを脱ごうとする私。
 脱ぐ過程でどうしようもなく一度視界を布で覆われるタイミングが発生する。
 その瞬間を見計らうかのように
 ブシャー。
 静かに、しかし重く私の内臓を抜き取るかのような衝撃が腹に走り、後からびちゃびちゃと私のであろう血らしき液体が地面に落下する音が聞こえてくる。
 死んだ。
 それを覚悟したが、同時にある違和感も覚える。
 私がマスクを脱ぐ隙を狙って攻撃する点に関しては素晴らしいといえよう。完全に終わったと思って油断してたし、自ら視界を遮るようなアホなことをする奴は、こんな闇討ちをされて殺されても文句は言えないのだ。
 私に闇討ちすること自体はいい、歓迎すべきことだ。
 問題は誰がこんなことが出来るということだ。
 あの群衆の中でこんな錬度の技術を持った人間はいなかったはずだ。
 あの百舌とかいう奴だって、所詮はペーパーアサシンで、これほどのことが出来る奴には見えなかった。
 仮に、あの群衆の中でそんな人間がいたと仮定したとしても、一番の違和感は今巡らせているこの思考だ。
 私のことを恨んでいて、尚且つ馬鹿でかい硬直時間を向こうからしてくれたのだから、やることと言ったら瞬殺だ。このレベルの闇討ちができるプロなら走馬灯を感じさせることなく命を刈り取ることができるだろう。
 逆に手抜きをされている?いいや違う。
 私の手抜きを見破っているレベルの人間だからこそできる芸当だ。『どうせ血を抜くならギリギリ意識失わないくらを見計らって抜かんか、ボケが』っと言いたげな、激情からではなく激怒の意味がこもった一撃だった。
 私の知る限り、この世でこんなことが出来る人間というのは猿飛家や他の殺し屋のプロを覗いても一人しか見当がつかなかった。
いや、それも違うな。
そもそもあの人は『人間』ですらないんだから。

「どうせ抜くんならあと四百は軽いだろ。アホ瑠可」
 
ほらやっぱり言った。一言多いところも加えてやっぱりあんたらしいよ。
「桃太郎師匠!」
 腸からはいつの間にか痛みが消えていた。師匠の言葉通り、本来ハンデとして適量の血を抜かれたあと、すぐさま止血してくれたんだろう。
 人を殺めることの専門家というのは、同時に人の生き死にのラインを自在にコントロールもできるということだ。じゃないと人質交渉とか出来ないもんな。
 試しに立ち上がろうとしてみる。
「…はは、これだよこれ!眩暈も酷いし世界がぐるんぐるんしてちゃんと立ててるかも分からない状態だ。それでいて寒いはずなのに汗がドバドバ出てきてやがる…これでこそ奴らと対等に渡り合える最高のコンディションってやつだよ!師匠!さっすが私のことをよく理解してくれている!」
 嬉しかった、尊敬する存在がちゃんと私のことを見てくれていて。
「んじゃあ気が利く師匠なら第二ラウンドとして何人か兵隊を連れ戻してきてくれたよな!はは、たのしーな、瑠可ちゃんまたドキがムネムネしてきちゃったぞ!」
「ダアホが。んな骨のある奴いなかっただろ。これは単にお前が血抜きの手抜きしてむかついたからやったまでだよ」
「はは、師匠。親父ギャグですかー?笑えねー」
「本当に腹ぶん殴ってやろうか」
 ウソウソ、そんなことしたら本当に私死んじゃうから勘弁してほしい。あれ、でも待てよ。師匠が私と稽古以外で会話する理由ってなんだろう?
 頭に血が回らないから、数秒の間が出来る。
「あ、もしかして!実は桃太郎師匠が猿飛家の試験管も兼ねてたとか?」
「んまあそうだよ。お前には黙ってたけど、実は『猿』選定試験を最高責任者である私自ら試験官をやっていたということだよ。全くこの歳になってまだ下っ端みたいなことしなきゃいけないなんてな、寿命がいくつあってもこの国を支えるには足りないよ」
「かぁー、そりゃあいくら私から猿飛家の尻尾を掴もうと探っても見つからない訳だよ。私が師匠の隠密行動を見つけられるはずねーもんな。でも師匠も人が良いですね。夜は私の毎日の修行見つつ、日中は学校でずっと見守ってくれていたなんて!もう二十四時間ほぼずっと一緒だったってことじゃないですか!」
「まあお前に見つからないで監査できるのって、もうほぼ私しかいないもんな」
「んで!どうなんッスかね!ずばり合否は?さすがにここまでやればもう合格決めたも同然っしょ!」
「…はあ、お前自分の胸に手を当ててよく考えてみ」
「ん」
 体を動かす最小限の血しか流れていないはずの私の体だったが、今は師匠にちゃんと見ていてもらえた嬉しさのおかげで胸だけじゃなく全身がドックンドックン鼓動していた。恋かな?
「間違いぬわーく…合格っ!」
「んな訳ねーだろ、バーカ」
 は?
 …え?、嘘だろ?
「じゃあ不合格なのかよ!何で!」
「いや、何でって言われても…」
 困ったちゃんを見る目で見つめられる。嫌だ、やめて、師匠からもそんな目で見られたら、今度こそ自殺しちゃう。
 血が足りなくて全身脱水症状のはずなのに、私の瞳からは滴が溢れてきていた。
「…瑠可。お前猿飛家から試験で何を試されているか、ちゃんと説明受けてた?」
 実はもう喋れる状況ではないが、師匠に失礼があってはいけないとならべくいつも通りに戻ったつもりで言葉を紡ぐ。
「え?世間一般に潜伏して隠密行動が取れるかの試験」
「今のお前の状況言ってみ」
「何か暇だから調子乗ってたら悪目立ちしたらいじめられて、でもむかついたからボコボコにしてやり返してやった」
「それで合格できると思う!?」
 いやちょっと待って、簡潔に言い過ぎた。確かにそうなんだけど言い訳をさせてほしい!私も何も考えなしに反撃したって訳じゃないんだよ、ちゃんと試験に合格するために軌道修正の努力もしたし、最低限の筋は通したつもりだよ!
 っと喉の中では言葉が出かけているのに、体調不良と精神的な嗚咽で言葉がまとまらないでいた。
 でもさすが師匠だった。
 そんな嗚咽でも、噛み砕いて私の言いたいことを理解してくれたらしい。
「いや分かるよ。お前も試験に合格しようと必死だったんだな。その必死さに免じてずばり言うとだな、この試験は猿飛家側かわ仕組んだ出来レースだったんだよ。私も万が一にもお前を受からせないようにとそれなりに口添えはされてこの場に臨んでいる」
「な!」
 今度は違った。
 嗚咽ではなく余りある殺意を言葉に出来なくて詰まってしまった。
 野郎共…どこまで腐ってやがる…殺してやる…
「いやだってお前性格上絶対大人しくできないじゃん。そういった激情を読まれているからこんな試験組まされるんだぞ。毎日何百回も言っているが今日も言うぞ。お前のそういうところがあるから妹に負けているんだよ、プロとして」
「………」
 言葉にならなかった。確かに毎日言われていることだからもう私も反論する言葉のバリエーションが単純になかった。
「んじゃ仮に私が大人しくしてようとも、連中は落とす気でいたってことなのか?」
「『仮に』って言ってもお前が大人しかったことなんてこれまで一度もなかったしな。今だって見事に目論み通りの動きをお前はしてくれているだろ?」
「いや、でも私は私でちゃんと頑張って…ってあれ、でも出来レースだとしたら少し違和感はあるよな。落とす前提ならなんで試験官が桃太郎師匠なんだよ。普通落とすつもりなら贔屓目使ってくれる師匠より、バリバリ身内の人間遣わしてくるはずだろ?」
「いや、私もお前に全然贔屓目使うつもりないけど。今だって落とす気満々でいるし」
 まあそれを私と面と向かって言ってくれるのが師匠の良いところなんだけどね。
 っとは思ったが、師匠にしては珍しく溜め息を吐きながら言葉を選ぶ仕草をする。関係ないところに注目してまた怒られそうなんだけど、どこか色気のある吐息だった。
「さっきも言ったが現状お前に気付かれないで尾行できる猿飛家の人間はもういないんだよ。別に私も弟子の為に偽善業務で試験管に立候補したんじゃなくて、消去法で選ばれただけだよ。仮に適当な猿飛家の人間の尾行にお前が気付いたら、校舎を戦場と化す程お前は暴れるだろ。そっちの方が一般人に危害が出そうで私も気が気じゃなかったんだよ」
 ふむ、まあそうだな。理に適っている。
「なあ、瑠可よ」
 しっとりとした目線で見つめられる。毎日修行で殺し合いをしていて、私の産まれた時から師匠だったこの人に、こんな目で見られるのは初めてかもしれない。
「諦めてはくれまいか」
「嫌だ」
 目線で殺すつもりで睨み返す。こんなんで死ぬような化け物じゃないことは分かっているけど。
「夢を諦めてたまるかよ」
 一緒に夢を追っている蟹瀬君には悪いが、まだ胸を張って言い返せるような体調ではないので、せめて声色だけでも彼に恥じないよう、全身を震わせて発声する。
「私は何としてでもこの試験に合格して、正式な『猿』としてあんたの元で働きたいんだよ!あんたの右腕になって!いつも隣にいて!世界中の色んな奴と戦って!その為に死ぬ程努力してきたし妹とだって殺し合ってきた!もうここまで来たら後には引けないんだよ!もうどんな奴に否定されようと!私のこの夢は!誰にも邪魔させねえ!」
「…私が嫌だと言ってもか…?」
 泣く。
 悲しいから泣く。
 夢が潰えて絶望したから泣く。
 そうか、私にもまだこんなシンプルな機能が残っていたんだな。
 そりゃまだまだ師匠から見たら私は普通の思春期のガキなんだろう。
「何であんたの口からそんなこと言うんだよ…私がどれだけ頑張っているか知っているはずなのに…私の側にずっといてくれると思ったのに…まだ努力が足りないってのかよ…言ってくれよ、もうこの際ずばりと。そこを治すからさ、心を潰してでも…」
 いっそのことどうせ致死量ギリギリなんだから、このまま少しの切り傷付けて血を抜いてあっさり死んでやろうかな。でもその前に瞳から出る水分が多すぎてどのみち脱水症状で死んでしまいそうだけど。
「馬鹿を言え」
 体中の水分が出る前に、師匠に涙を止めるツボを強制的に押されてしまう。
「…だってよ…」
「勘違いするなよ、まだ私の口から『不合格』とは言っておらん」
 心に花が咲く。今度は血圧の急上昇によるショック死するんじゃないかってくらい、鼓動が高鳴った。
「だが合格とも言わん」
「だからどっちなんだよ!殺すぞ!」
 …っとさすがに言葉遣いが過ぎたか、ギロリと睨まれてしまう。
「認めたくはないのだが、正直今のお前は『合格』とか『不合格』の二択で判断するにはその規格から大きく外れ過ぎている」
 …規格、この場合猿飛家の最高役職である桃太郎師匠の『猿』のポジションの適性能力と言ったところだろうか。
「素直な感想を述べると見事だったよ。連中の目論み通り悪目立ちしてこのまま試験不合格で終わるかと思いきや、学校内で有能な人間とのコネクションを築いて、そいつを裏の顔と旗を掲げて学生社会を強引に統一するなんてな。血抜きは甘かったがまあ一般人への被害も最小限に抑えられているし、プロとしての矜持も任務も両立した結果だと賞賛するよ。ゴールに向かった逆走しているかと思ったら地球を一周して優勝したようなウルトラCだ。正攻法でないにせよ、『世間に溶け込む』以上に『世界そのもの』なったんだよ、お前さんは。敢えて点数をつけるなら百点満点中千点の解答だよ、だがな…」
 地面にキスしている私にならべく視線を合わせようと屈んでくれる師匠。私も無礼がないよう、今の体力でできる一番高い位置まで後頭部を上げてみる。
「私の『猿』の部下に千点出してしまうような規格外はいらん。あくまで命令した通りの百点の仕事のできる人材を入手して、この国を共に救うのが私の第一優先だ」
 死のうと思って隠しクナイを出そうとするも、ただでさえ死にかけなので普通に師匠に叩き落とされてしまった。
「ただポジティブな言い方をするとだな、お前はもう私の『猿』なんて役職に収まらないような人材になっているということなんだよ。猿飛家の誰一人がお前を監視出来ていないように、私も『猿』としてお前さんを制御できる自信がないんだよ」
 地面に落ちたクナイを拾い上げ、パキッとお菓子みたいに真っ二つにする師匠(化けもんめ)。奪ったかと思ったら今度はそれをカランとまた私の目の前へとそれを無造作に投げてくる。
ただ無造作といっても、師匠は闇雲にクナイを割った訳ではないようだった。
私の目の前には、本来クナイに刻まれていた『猿飛家家紋』を綺麗に半分にした鉄クズが転がってきた。
「悪いことは言わん。瑠可よ、もうお前は『猿飛』の名に縛られるな。『猿』になるという夢を呪いにするな。名と夢に自身の可能性を閉ざすなんてこと、師弟関係以前に十代の人間がしていいことじゃないんだ。師として断言するよ。お前は『猿』なんてつまらないものよりもっと強い存在と成りえる。私の隣に対等に立てるくらいにな」
「そういって諦めさせようとしたって…私は動じないぞ…」
「…そうか、どう捉えるかはお前に任せるよ。けど純粋に驚いたな。私はしっかり涙を止めるツボを押したというのに、まだ出るとはな」
「な…」
 自分でも分からなかった。嬉し涙か悔し涙かは分からないけど、確かに師匠のツボの効果も無効化して出ているこの水分の出所は今の私には分からなかった。
 私の涙じゃないのかな、もしかしてこれは。
「『猿飛』の姓を捨てることをおススメするよ、私は」
「姓を…捨てる?」
「お前には何回か言っているな。人格というものは弱い。特につけられた姓という家の呪いによっていくらでも人間の性格というものは歪んでしまうんだよ。お前をその呪いからてっとり早く救う方法としてはまずは形からといったところかな」
「わ、私結婚するの?え?師匠と?」
「何で話がそこまで飛ぶんだよ。嫌だよ弟子と結婚するなんてかっこ悪い。つーかお前まだ中学生だろ。普通に私が猿飛家近隣家系にとりあえず養子として戸籍を移す手続きしてやるよ」
「でもそんなことしたら本格的に『猿』になれないんじゃ…」
「ああ、そうだよ諦めろって言ってんだ。そんでもっとでかい目標を師匠直々に勧めてやってんだよ。ありがたく思えよな。歴代『猿』の中でもお前は飛びぬけて世話かけているやつだよ…いや…大体の『猿』には苦労させられたもんだが…」
「?」
 そういえば普通に聞くのはご法度だと思っていたけど、師匠にとっての歴代御三家ってどんな人物達が勤めていたか聞いたことないんだよな。今ついうっかり師匠が口を滑らせていたけど、私自身それを質問しようとする発想自体、今の今までしようとも思っていなかったしな。
 これが家の教育、呪い…?
 そして今、その呪いから解放されて、私はもしかして新しい自分、いや新しいというよりこの感覚は…
「っていうか薄々思っていたけど、お前ちょっと二重人格めいているところあるだろ。家の責務を果たそうとする『猿飛瑠可』としての人格がある一方で、私の弟子になろうとしている、さしづめ『もう一人のお前』。その二つの意見をどっちも叶えようとしているからお前は中途半端なんだよ」
 …ぎく、やっぱり師匠にはバレてたのか。
 私の性格の『壊れたままでいいや』の部分。
 そうか、でもやっぱり駄目なんだな、この人の隣に立つ以上は私は私を治さなくちゃいけないんだ。
「お前も今回の件で痛い程分かっただろ。相反する意見を自分の中に内包すること自体は別に構わない。だがいざ事を成そうとする時に『どちらかのポリシー』を捨てれることが大事なんだよ。あの蟹瀬とかいうガキが理想のヒーロー像を捨てて現実的な指導者になる道を選んだように、お前の中の『猿飛家』とのしてポリシーを、呪いを捨てる時が来たんだよ。何、別に恥ずべきことではない。人は誰しも生まれた環境を、どんなに憎まれ口をたたこうとも家族のことは愛してしまうものだ。人格を歪ませない家族なんているもんか。だけど誰だっていつかその環境から卒業しなきゃいけない時が来る。それが早いか遅いかの違いでしかないが、確かにお前くらいの歳では少々早すぎて不安になる気持ちも分かるさ。私が見守っててやるよ。お前が姓を捨てようとも失望しないし、自分を見失いそうになったら導いてやる。どんな成長をしようともお前はお前、『猿』ではなくお前は私の弟子の『瑠可』として見ていてやる」
 ぐちょぐちょになった血と汗の水溜りの上で私はもがいた。まるで難産の末に生まれた獣のように這いずりながら、所々未完成ながらも、私は新しい世界に祝福されるためだけのために、二本の足で立ち上がろうとする。
 そんな私を、師匠は数分間見守っててくれた。
 ああ、今度こそ別れの時がきたんだな。
 さようなら、もう一人の私、あなたとの学生生活、楽しかったよ。
「お前の新しい姓は『●●』だ。『●●瑠可』。気に入らなかったら他の養子先も検討してやるが」
 …それが新しい私の名前か。まあ姓の呪いが解ければ正直なんでもいいんだけど、ちょっと語呂が残念だな。
「あだ名付けていい?」
「意外と気に入ってるな。まあこれから自分のものになるんだから好きにすればいいさ」
 空を見上げる。
黄昏時で沈みかけている日と共に、淡い紅色が静かな蒼に変わっていく最中だった。



「うおーい猿飛!どういうこったこれは!」
 って姓が変わったばかりだけど、さすがの師匠も次の日からいきなり情報操作できていなかったようで、登校した開口一番に蟹瀬君からいきなり旧姓で呼ばれてしまった。
 …せっかく生まれ変わったというのに締まらないよなあ。まあその方が私らしくていいのかもしれない。よお、昨日の私、一日ぶり。
 捨てた今だからこそ言えるが、漢字の組み合わせとしては嫌いなものじゃなかったしな。猿飛って。
 まあそんな内輪ネタを蟹瀬君は知り由もないだろうし、無視するのもかわいそうだから普通に応答する。
「おはよう、蟹瀬君。朝から元気そうでなによりだねえ」
「元気も何もビックリだよ!登校したらいきなり舎弟になりたいって野郎共に囲まれたり、色んな家系の偉そうな連中から名刺が紙吹雪みたいに舞い込んでくるわで大変なんだよ!お前昨日どんな暴れ方したんだよ!」
 はは、そうだったそうだった。そういうストーリーにしてたんだっけな。
 私はあくまで蟹瀬君の手下であって、裏で学園を牛耳ってる支配者。また私にちょっかい出して殺されかけられるのは御免だから、まずは蟹瀬君にいい顔しようっていう路線になったか。そこらへん金持ち学校だけあってか、コネクション作りのマナーはちゃんと出来ているようで安心した。
まあ昨日の今日でいきなり私に弟子入りしたいっていう恐れ知らずの馬鹿がこの学校にいるとも思えねえしな。
「あ、あの!猿飛の姉貴!おはようごぜえやす!」
 いた。けど誰だっけかな、君。
「末広のとこのパシリだった者です!昨日の猿飛の姉貴の戦いっぷりを見て連中とは縁を切ってきました!是非とも姉貴の弟子にさせては頂けないでしょうか!」
 はあ、いるんだな、それなりの名家と絶縁してまで弟子入りしようっていう、現代にしちゃ珍しい馬鹿みたいの。
「ああ、ごめん。今蟹瀬君と話してるから良かったら後にしてくんない?」
「はい!分かりました!失礼しやしたー!」
 ヒュー、っとどこかへ飛んでいく変な奴。
「お前…マジで昨日何をやらかしたんだよ…」
「いやあ個人的にはお恥ずかしい内容だったから出来れば思い出したくないんだけどね、うふふ」
 まあそんなことよりだ。
「ありがとう、蟹瀬君。君のおかげで私はイジメから救われたよ。これから裏番として色々大変だとは思うけど、私が巻いた種でもあるから、責任持って影ながらサポートさせてもらうよ。これから一緒に学泉生活よろしくな」
 ニコリと笑う。これも営業スマイルといえばそうなんだけど、そういえば同い年の男子とこんなに警戒心なしに会話したのは初めてかもしれない。
 惚れるなよー、蟹瀬君。私にはベーコンの君がいるんだからな。
 っとか浮かれていたけど、蟹瀬君の顔色は青かった。
「どうしたんだい、蟹瀬君、具合でも悪いのか?道に落ちてるパンでも食べちゃったのか?」
「…いや、お前に普通に『蟹瀬君』って言われるのももぞもぞすんだけどよ…周りの状況以上にお前自身も何か人が変わったみたいに変貌してないか?妙に優しくなってて恐怖だわ」
 おいおい女子に対して『恐怖』はないだろ?前歯抜くぞ?
 っとは思ったけど家庭事情を知らない蟹瀬君には気付かれてもしかたのない違和感だ。むしろそういう細かいところに気付いてくれて複雑ではあるけど女子としては嬉しいことではあるかな。
ここは学友としてしっかり説明させてもらうとしよう。
「昨日ちょっと色々あってさ、私、姓が変わったんだよ」
「あ?何それ。昨日の騒動がありつつお前の両親離婚とかでもしたのかよ。どんだけ騒乱な一日だったんだよ…あ、もしかして失礼なこと言っちゃったかな、俺」
「ああ、いいよ気遣いは構わない。私自身の問題さね。でもいざ姓が変わってみるとやっぱり不思議だな、違う自分になったみたいだよ」
「はあ、まあ家庭事情っぽいから深くは聞かないけどよ」
「実は結婚しました」
「嘘付け、まだ十四だろ、お前」
「てへ、バレましたか」
「んで改めてこれからお前のこと何て呼べばいいんだよ。『瑠可』って下の名前で呼ぶの気持ち悪いからできれば教えてくれよ」
 ふむ、考えてみればこうして口にするのも、人に口頭で自分の新しい姓を名乗るのもこれが初めてかもしれない。
 今この瞬間、私はやっと『猿飛瑠可』ではなくなるのかもしれない。
 師匠でも、妹でも、業界の人でも敵でもなく。
 友達に自分の名前を伝える。
 私が私になる本当の瞬間はここなんだろうか。
 ありがとう、蟹瀬君、君と友達になれて良かったよ。私の名を告げてから、改めて彼にそう言ってあげよう。
 さようなら、そして初めまして、新しい私。

「私の名は井出瑠可。気軽にイデルガ先輩と呼んでくれ」

「…いや、先輩じゃねーだろ、俺達同い年だろ?」
「何か語呂が良いんでつい…」
 イデルガとしての私の新しい人生が、今始まる。


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「灰夜叉4」もまた明日アップします。
カテゴリ: 創作

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