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□呼吸10
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▼無自覚

カバンが床に落ちる鈍い音と共に、時間が一瞬だけ止まりました。僅かに開いたドアから彼の視線が私へと向けられます。彼は私を見るなり、持っていたカッターから腕の力を抜きました。
宙にだらりと投げ出された腕は、目の前にいる先生を突き刺すことはなかったのです。
私は呼吸すら忘れ、その光景を愕然と見つめていました。
そんな私に対し、彼はひどく虚ろな顔をしていました。そしてまるで何事もなかったかのように、乱れた衣服を整え、私の元へ来たのです。保健室に残された先生は、未だ呆然と宙を眺めていました。それすら黙殺し、彼は私の腕を強引に引いては、その場から去っていきました。

掴まれた手首からは、ゾッとするほど冷たい彼の体温が伝わってきます。前を歩いていく背中は振り返らず廊下を進み、階段を上り、そして教室へと辿り着きました。
ドアの前で立ち止まる彼は、肩越しに私に視線を向けます。蛍光灯に照らされたビリジアンの瞳が、仄白く揺れました。

「荷物を教室に置いてきてしまったので……」
「! あ……う、うん、待ってる、から」
「すみません」

ドアを開け、暗く沈んだ教室へと彼は足を踏み入れます。横顔がひどく青白く見えました。具合が悪いのでしょう。先ほど見た光景に混乱した頭は、ただ彼が口にする言葉に無難な返事しかすることができませんでした。
バッグを抱えた彼は、一度だけ私の隣に止まり、一瞬だけ視線を向けました。そして特に合図をしたわけでもないのですが、ゆっくりと歩き出します。神経質に点滅する蛍光灯に、彼の背中が透けて見えたような錯覚に捕らわれました。不安が心中で肥大します。私はそれを無理やり押し殺し、ひたすら彼の傍らを歩きました。すると不意に彼の足が止まります。

「少し、待ってもらってもいいですか」
「うん」

ちょうど水道の前でした。彼は荷物を足元に置き、蛇口を捻ります。勢い良く流れる水に両手を晒しては、まるで引っ掻くように洗っていました。真っ赤な手の甲と、真っ青な頬。その表情は嫌悪感に歪み、吐き気をこらえるように唇を噛み締めていました。

「……ランス君」
「何か」
「あの、大丈夫?」
「……」
「具合悪いなら、迎えとか呼んだ方が……それが無理だったら、あの……」
「?」
「私が、心配だから途中までついていく」
「……途中も何も、私の家は貴女の帰り道にあります」

少しだけ怪訝に言った彼に、私は戸惑ってしまいました。しかし彼はそんな私に僅かな苦笑を零して、水を止めます。水音が止み、僅かな沈黙が訪れました。

「1つ、教えてください」
「?」
「私は、気持ち悪いですか?」
「……どうして?」
「!」
「どこにも、気持ち悪いところないよ」
「そうですか」

視線が私からそらされました。次いで彼は先ほどと同じように再び「少し待ってもらってもいいですか」と言ってはトイレに入っていきました。顔色が先ほどよりもずっと悪いように思えました。いつかの、水道で吐いていた彼の姿が脳裏をよぎります。やはり具合が悪いのです。
私は壁を背にズルズルとその場に座り込みました。

彼の家庭の事情も、彼の口から直接聞いているのである程度知っています。頼れるものがないという状況が如何に不安定で頼りないものなのか、少なくとも、クラス内で苛めまがいのことをされた私には、僅かながらもわかる気がしました。ただ、その質も規模も、彼とは比べものにはなりません。一体どんな思いで毎日を送っているのでしょう。力になりたいだとか、支えになりたいだとか、そんな傲慢なことは望みません。しかし、誰も彼もランス君から離れていってしまうばかりなら、私が近くにいることくらい、許されるでしょうか。

途方のない思考を巡らしながら、ひたすら時間が経つのを待ちました。それから彼が出てきたのは、10分ほど経った頃です。顔色の悪さが僅かに薄れたようにも思われました。しかし何よりも、目が充血していたことに私は驚きを隠せませんでした。少しだけ鼻声になった掠れた声が、「寄り道をしませんか」と零します。
私はただ黙って彼の後に続きました。

その日の帰り道、いつもと違う帰路を辿って帰りました。少しだけ遠回りになってしまいましたが、歩道橋がある、比較的交通量が多い道を選んだのです。
歩道橋からは、既に点々と灯り始めた街の灯りが鮮やかに点滅していました。橙の空に藍が滲み、辺りはずいぶんと暗いです。街明かりに照らされた彼の横顔が、ひどく綺麗だったことを私は覚えています。

今さらという感じが否めませんが、やはり私は彼が好きだったのでしょう。






2011201

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