紅ニ染マル轍


□昼下がり
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突き抜けるような青の帳に覆われた午後だった。
辺りには甲高い子供の笑い声が響き渡っている。
大人たちのとりとめのない世間話が時折笑い声の中に見え隠れし、穏やかなその風はどこまでも遠く、尾を引きながら平穏さを示唆していた。
ただ茫洋と退屈とさえ感じられる風景は空のようにどこまでも続く。
それを眺めては湯飲みへと手を伸ばした。




「今時階段話なんて、子供も喜びやしやせんぜ」
「………」




不意に耳朶を打つ濁声に、ふとしたように湯のみを持つ指先がピクリと動いた。
先ほどまで興味深く、けれども顔を青くして聞いていた中年の男、この宿屋の主の言葉に、そちらへとチラリと視線を向ける。
そして視線が合うなり苦笑を顔に貼り付け、ゆっくりと言葉を紡いだ。




「…子供に聞かせるつもりはありませんよ」
「ほお」
「…お生憎様…子供は少し苦手なんです…」
「ははっまだ若い嬢ちゃんの言葉じゃないねぇ」



そんなんじゃあ子供も作れないだろう。

そんな冗談を顔に屈託ない笑みを浮かべながら宿屋の主は言う。
それに苦笑混じりに「困りはしないでしょう」と返せば、彼は一本取られただのと大きな笑い声を上げた。




「それにしてもよ、嬢ちゃん」
「?」
「鬼女の話はともかく、だ。
ここいらじゃ最近辻斬りの輩が出るって噂があるからな。
夜なんか特に危険だし、野宿を選ばなかったのは正確だったな。」
「そうですか…」



手に持った湯飲みを口へと運ぶ。
口内にジンワリと苦味が広がり、それを感じながら茶を飲み下した。
喉を熱が滑り落ち、口内には茶のほどよい苦味の余韻。

頬を掠める風を感じ、何気なしに外を眺める。
すると風が湯飲みに張った茶の水面を波紋させた。








「……不気味な、村…」






風に揺れる髪の間で、かすかに目を細めながら呟く。
風に揺れる木々は木漏れ日を穏やかに揺らし、けれども不気味にざわめかせた。
…誰にも聞こえることのない、小さな呟きだった。
かすかに剣呑さを宿した瞳は、すぐにその内の感情を隠すように閉じられる。

そして軽い音をたて、湯飲みはお盆の上に置かれた。
静かに響いた乾いた音に、宿屋の主は一瞬だけ目を丸くした。




「何か言ったかい?」
「いえいえ…」
「そうかい。
それにしても、」



そう、宿屋の主が何かを続けようとした時だ。
その声に重なるようにカランと軽い音が耳朶を打つ。
思わず宿屋の主は言葉を中断し、音の方へと視線を向けた。

それにつられるようにそちらへと視線を向ければ、そこは宿屋の入り口。


新しい客人でも来たのだろう。


そんなことをぼんやりと思いながら見ていれば、現れたのは一人の男だった。



「!」




一瞬だけ、現れた男の容姿に目を見張る。
華奢な体つきに、それを際立たせるような透き通るように白い肌。
鮮やかな浅葱色の着物。

長い髪のためか、その端正な面立ちのためか、どこか中性的な風貌は妖艶な空気を纏っている。

そして身の丈半分はあるであろう、大きな木箱。
背負っている木箱を見るに、おそらく薬屋。





「お、薬売りかい?
生憎だがうちは今のところ間に合ってるよ。
当たるなら他を当たっとくれ」


男の姿をかすかに怪訝そうに眺めながら宿屋の主は紡ぐ。
かすかな嫌悪を纏った声音から、如何にも彼を追い払いたいように思えた。
しかし男はその言葉をまるで気にする様子もなく、ゆっくりとした口調で口を開いた。



「…いえ…」
「え?」
「宿を、」
「!」
「一晩…お願いしたく…」



ゆっくり。
空間に一つ一つ丁寧に言葉が染み込んでいく。
男が独特な口調でそう口にするなり、宿屋の主は「ああ!」と納得でもしたような声を上げた。
一変したその笑顔の露骨さに思わず小さな吐息を零す。
そして宿屋の主は表情に愛想の良い笑みを浮かべながら続けた。



「お客さんかい。
今日は嬢ちゃんといい客が多くて嬉しいねぇ!」
「………」



こちらに向けられる、笑顔。
するとその視線を追うように、男もまたこちらへとゆっくりとした動作で視線を向けた。






「……どうも」
「…こんにちは…」




視線を合い、僅かな間。
続いて響いた音は、ひどく、抑揚に欠けた声音だった。
向けられた視線もどこか無機質で、まるでこちらの内側を探るように男は目を細める。
その視線に一瞬だけザワリと肌が粟立つのを感じ、思わず眉をひそめた。



「何か、」
「いえ…」
「………」
「何も、ありませんよ」
「………」
「………」





ゆっくりと、こちらへと歩み寄る下駄の音。
カランという音が数度繰り返され、音が間近で聞こえる頃には男は向かいの席に座っていた。

先ほどから、まるで人形のように表情一つ変わらない男の纏うその空気に、シン、と背骨が軋む。

視線が絡めば全身の血が凍り付くような錯覚に襲われ、思わず一瞬だけ呼吸を止めた。

そうして己の内の焦燥感を必死に押し殺しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
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