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□真珠
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父は海底の真珠へと命を成しました。
母は深海の真珠に相成りました。
水泡として浮かぶ私の意志は、海面で弾けて跡形もなく消えていくばかりです。

私の血を継ぐあの子もまた、未だ無知故。

父様や母様のように、あの深い海原の腕に抱かれて眠る、真珠に成るには難しい。

だけどどうか、どうか。
私と同じ路など辿らぬよう。



私に彼女がいたように、あの子にも共に生きてくれる誰かが現れるよう、願うばかりです。

しかし何故でしょう。
海底はとても重く苦しく、呼吸ができないのです。



それでもこの子だけは、私にだけは似ないよう。


真珠 と 水泡



遠くを臨む緋色の瞳が影を落とした。
どこまでも深く、底の見えない闇を称えた海原は、月明かりに煌々と揺れている。足下の砂が風に巻き上げられ、透明な音を立てる。
私はただ隣に立つ大きな影へと視線を向け、その赤い瞳を見据えた。

「海は、お好きですか」

問いかけなのか、それとも確認なのか、言葉を発した私自身にも判別がつかない。ただ彼は相変わらず海面を見つめていた。問いかけにも反応を示すことはない。ざあざあと波の音だけが聴覚を支配した。
彼の色素に乏しい肌や髪に、青白い月明かりが差す。まるで生気を抜き取っていくようだった。私は背筋に冷たいものが走るのを感じる。

「海は、私にとってみれば巨大な墓標です」

長い間を置いた後に、彼は海に視線を向けたまま呟くように零した。地平線は真っ黒に塗り潰されている。彼は紅い眸を細めた。そして数歩、海際に進む。爪先に波にぶつかり、飛沫がはじけた。

「海の底には、喪われたものばかりが眠っている」

彼曰わく、それは栄光か。

「取り戻したい過去が、深海で眠りに就きました」

私思うに、それはゆめ
途方もないユメだ。

長い間海水晒された王冠など、腐り果て錆び付いてしまっただろうに。
だというのに彼はそれを真珠と形容する。
錆び付いた王冠を。
過ぎ去った過去を。
価値があると言った。

私からしてみれば、それは孤独≠サのものである。
誰一人といない真っ黒な世界だ。呼吸もできない。光も届かない。身動きも取れない。あるのは体内を満たす水のみである。肺腑を埋め、胃を埋め、腸を埋め、体は重くなる。呼吸を妨げる水。質量的には満たされるが、それはある種の虚無だ。
そこに至高を求める。
なんてかなしい。

「貴女には、わからないでしょう」

彼は嘲るように呟いた。しかしそれは自嘲にも見える。そして再び海へと歩を進めた。

「私には最早、それしか遺されていないのです」
「貴方には、たった一人のお子さんがいます」
「ならばこう言えばいいでしょうか」

私があの子に残せるのはそれしかないのです

「……」
「あの子は私同様、途方もないユメを見ています。しかし私の二の舞を演じる義務など、ないでしょう」

バシャンと音を立てて、彼は海面を突き進む。
月に叢雲が差し、辺りが暗闇に呑まれた。それでも海は青白く燐光を放っている。

「この海底には、私の父と母が眠っています」
「……」
「この血が紡いできたユメが、沈んでいます。王冠が息を潜めています。私はそれを、たった一人の肉親のために取り戻さなければなりません」
「貴方は」
「私には、それしかできないのです」
「待ってください」
「それだけが、今できる最大限のことです」

世界を変えたい

この世界は私たちにあまりに優しく、しかし彼らに残酷過ぎた。
普遍的なものは容易く受け入れられる一方で、異物は嫌悪される。
彼らが望んだのは異物が疎外されない世界。
時間をかけての理解が、万人に通用するわけではない。
ならば、その手っ取り早いすべはひとつ。
短絡的ではあるが、権力を持つことだ。
その裏側にある本心は、独りにはなりたくないということだろうに。

彼はあまりに遠回りをし過ぎた。

「神話の再現こそ、私が望む世界」

偉大なる王、ハルモニア
調和の統率者。
海に眠る起源。
彼が求めてやまないもの。

私が、彼から切り取ってしまいたい汚点。

「貴女には、やはりわからないでしょう」

彼が私から視線をそらした。私はそれにまるでしがみつくように、海へと足を踏み入れる。爪先から全身に波紋する刺すような冷たさに息を呑んだ。叢雲が流れ、月が再び姿を現す。彼は変わらずに小さな笑みを浮かべいた。
私は息を吐き出すように言葉を紡ぐ。

「私には、わかりません」
「心配しなくとも、理解など求めた覚えはありませんよ」
「しかし貴方は理解を求めていました」
「……手に入らないものは、求めてしまうものです。結果、小さな子供に全てを押し付けました」
「後悔なさっているのですね」
「後悔では、語弊があります」

それは自ら望んでやったことだと、彼は繰り返す。夜風が冷たい。
右手を伸ばせば、それは高い位置にある彼の頬に触れた。無機質な冷たさが指先から伝わる。
このまま空間に霧散してしまいそうな危うさを孕む笑みに、心臓が波打った。私はその不安を払拭するように、言葉を紡ぐ。

「……戻りましょう」
「先に行きなさい」
「いいえ」
「……」
「一緒に早く、戻りましょう。あの子が待ってます」

彼のたった一人の肉親が。

「……そういえば、先日貴方が買ってあげた玩具をとても喜んでいましたよ」
「そうですか」
「今度は観覧車に乗りたいだそうです」
「……甘やかすのは良くありませんよ」

どうせなら、その父親の顔をあの子に見せてあげればいいのに。歩き出す彼は私の横を通り過ぎ、浜辺を進む。白い地に点々と付けられた足跡を追う。
海に向けられた背中は、耐え難い孤独を称えているようだった。

「早く来なさい」
「!」
「置いていきますよ」
「はい」

そうして並んで歩く距離は、近いのに遠い。忘れかけていた、心臓が波打つ感覚が蘇った。
必死にその感覚を払うべく、私は彼の手首を掴む。冷たい手首だったが、親指の腹で感じたの血の流動に安堵した自分がいた。

「……貴女もまだ子供ですね」

彼は小さく笑った。私が一方的に掴んだ手のひらを特に振り払いもせずに歩を進める。
夜風はやはり冷たい。


――きっと、この世界は生きるにはあまりに辛く、海の底は眠るにはあまりに寂しい。

だから、覚悟も判断も、体温を前に鈍っていく。


彼は自嘲しながらそう言った。





20101120

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