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□飛縁魔7
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「おやすみなさい」と告げて部屋に向かった彼女を見届け、大きく息を吐いた。傍らにやってきたフワライドが控えめに声を上げる。その不安げな赤い瞳に、大丈夫だと返した。途端に体に浮き上がった痣が鈍い痛みと熱を訴え始める。熱を冷ますように肺に溜まった息を絞り出した。

「……っ」

ほんの数日前から、痣は痛みを訴えるようになった。呪詛を放った妖の手がかりも見つからないまま、最期に向かうだけの日々が過ぎていく。
……ただ久しぶりに会った彼女が、相変わらずだったことだけが幸いだった。彼女にはまだ何の弊害もないようだ。しかしいつ何が起こるかわからない。彼女に害が及ぶ前に、せめて手立てを。
唇を噛み締め、痣が浮かぶ肌に爪を立てた。

「……大丈夫だよ、大丈夫」

自分に言い聞かせるように、フワライドを撫でる。冷たい夜風に身震いし、部屋に戻るべく立ち上がった。
開いた縁側の戸を閉める。……最近建て付けが悪いのか閉め辛い。半ば強引に戸を閉め、居間を出るべく襖へ手を伸ばした。

「!」

――しまった。
彼女を先に居間から出したことに、激しい悔恨が思考を焼いた。どんなに力を入れても襖が開かない。建て付けが悪いわけではない。閉じ込められた。まるで鉄扉のように重く冷たく佇む戸に、自身の拳をぶつける。それにフワライドが困惑したようすで僕の周りを旋回した。

「何をするつもりだ……」

天井から、如何にも楽しそうに笑う女の声が響いた。



***



ジュペッタを抱き締めたまま廊下を進む。ギシギシと軋む足元に、肩に力が入った。暗闇に慣れてきた目と、青白い月明かりのせいで視界は不気味に輪郭を保っている。腕の中にいるジュペッタも、どうこか落ち着かない様子だった。
込み上げてくる恐怖を噛み締めながら、マツバさんの部屋の前に行く。辺りは静まり返っている。無音だ。

「……」

やはり単なる杞憂だったのだ。特に何が起きているわけではない。きっと思い過ごしだ。全身が弛緩する。思わず吐息を吐けば、ジュペッタが私の腕をキュッと握った。小さく鳴き声を上げるその子に、眉をひそめる。

「どうしたんですか?」

向けられた赤い瞳が不安げに揺れる。私の杞憂が伝染してしまったのだろう。大丈夫だと繰り返しながら、その場から去ろうと踵を返した。
しかし刹那、廊下を走る足音が耳朶を打つ。思わず心臓が飛び跳ねた。だが瞬時にゲンガーかヤミラミだろうと解し、それ以外の答えを無視する。
頭をよぎる焦燥感を無理やり押さえ込み、早く部屋に戻ろうと足を踏み出した。

同時に肩に圧力がかかる。

「――!」

振り返るなと本能が悲鳴を上げる。しかし意に反して体は反転した。薄く開いた障子から、真っ白で細い腕が伸びている。骨のように無機質な五本の指が肩に食い込んだ。
ミシリと肩の関節が軋む。ジュペッタが私の腕からすり抜け、私の髪を引っ張った。それに我に返る。動くことを思い出した全身の神経が、弾くようにその場から走り出させた。手が離れると同時に、女性の笑い声が鼓膜を突く。

「ひ……!」

誰だ。あの手は誰だ。
あれが彼のものでないことくらいわかる。ではあれは誰の手だ?
全身に怖気が走った。彼の部屋に彼でない何かがいる。では彼はどこに。あの笑い声は誰だ。

恐怖に任せてがむしゃらに廊下を走った。どこを目指しているのかわからない。ただ彼を探していたと思う。腕にしがみついているジュペッタを抱き締め、廊下の角を曲がる。先は真っ暗だ。見えない。だが立ち止まったら、先ほどの白い手の主が追ってくるような気がした。
――どうしてこんなことに。
走っても走っても、先が見えない。おかしい。広い家ではあるが、部屋が一つも見当たらない。それが一層恐怖を煽った。

それから何度目かの角を曲がった時だった。
私はその暗闇に浮かぶ影に、反射的に足を止める。
――誰?
暗闇に薄ぼんやりと燐光する影は、白い着物を纏った女性のようだ。全身から熱が抜け落ちていく。
とっさに来たところを戻ろうと身を翻す。だが、来るとき曲がったはずの廊下は、何故か突き当たりで、私は逃げ道を失った。

「あ……」

白い女性は、ゆっくりとこちらにやって来る。私は壁を背に、身を強ばらせた。白い女性が歩を進めるたびにギシリギシリと廊下は軋む。それと共に笑い声が鼓膜の奥で反響した。
ジュペッタを強く抱き締める。
ボサボサの髪に覆われた顔。痩けた頬。色のない唇。ただ、口元だけが笑っている。目前に迫った女性が、私に骨のような指を伸ばした。

「……!」

同時にジュペッタが私の腕から再び抜け出す。そして女性に向かって紫紺の炎をぶつけた。着物に発火した炎は、瞬く間に女性を飲み込む。

「―――ッ!!」

甲高い悲鳴が響き渡った。女性は炎に呑まれ、もんどり打つ。髪を振り乱し、和音のような悲鳴が聴覚を突き刺した。
するとその光景に唖然としている私の手首を、何か強い力が引く。ビクッと跳ね上がる私に、何度か聞いたことがある高めの声が言葉を投げかけた。

「こっちだよ」
「!」
「早く。僕が案内するから」

――まつば′Nだ。
彼と同じ髪と瞳を持つ少年が、私を引いて走り出す。
しかし何故この子が。
疑問がよぎるが、それを考えるだけの余裕が私にはなかった。
悲鳴を上げている女性に視線を一度だけ投げかける。


彼女の瞳は、マツバさんと同じ色をしていた。



***



「!?」

笑い声が止み、突如として悲鳴が響き渡った。フワライドがそれに跳ね上がる。押し寄せる焦燥感に、開かない襖を殴りつけた。

「やめろ……っやめろ! 彼女に手を出すな!」

一体何が目的だ。何がしたい。何をそんなに怒っている。何を求めている。

「フワライド、シャドーボールだ」

強引だがこれしかない。フワライドは僅かに躊躇ったあと、黒い塊を襖にぶつけた。勢い良く襖が廊下に吹き飛ぶ。開いた視界の先は、ただ黒一色だった。

「……っ」

暗闇に向かい走り出す。早く彼女を見付けなければ。疼痛を孕む痣に耐えながら、自宅でありながら異界となった廊下を走った。






20101204

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