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□矛盾した曖昧な矛盾
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ごめんなさい

まだ死にたくないです




細い喉に手をかけると空気が擦れる音がした。彼は夜よりも深くて暗い双眸を細める。私は小さく息を吐いて、彼の首に絡めた自身の指に力を込めた。
1つ、2つ、3つ。
頭の中で数を数える。それに合わせて力を少しずつ籠めていった。10に達したら、きっと気道が完全に塞がれる。そこから今度はゆっくり30数えよう。頭の中で組み立てられる滑稽な殺人プランは、やけに軽い。何故か不自然なほどに指先の感覚がなかった。
1つ、2つ、3つ。
数を数える。
11、12、13。
彼は僅かに眉を寄せた。
21、22、23。
指が震える。
28、29、30。
私は大きく息を吐いた。笑えることに、私も無意識に息を止めていたのだ。肺腑に流れ込む空気がひどく重く苦しかった。

覚束ない視線が辺りをさまよう。窓から差し込む月明かりが、冷たくシーツを照らしていた。月が明るい晩だった。
私は恐る恐る彼の顔を見る。彼の黒真珠のような瞳が、冷たく月明かりを取り込んでいた。

「下手だな」
「!」

彼の唇が動いた。心臓が跳ね上がる。私の指に彼の骨のような指が這わせられ、息を呑んだ。

「ごめん、なさい」
「もういい」

シーツの上に投げ出された彼の手首が、力無く空を掴んだ。
青白く細いその手首には、無数の疵痕がある。赤黒く滲んだものや、くすんだ色のもの。幾度も刃物を滑らせた肌には生々しい直線が色鮮やかに刻まれていた。

彼は、死にたいのだそうだ。

疲労に霞んだ瞳孔が、月明かりを求めて最大限まで広がる。彼のその目が私を映すことはない。
私は彼のことなど詳しく知らない。
過去に何があって、どんな思いを抱えて、何故死にたくなったのか、私は知らない。
ただ私の名前を呼ぶ声や、本を読む横顔、家族を語る時に弓なりに細められる瞳が、優しいことを知っている。
彼は、優しい。
私みたいなありきたりで詰まらない人間をスキだと言ってくれた。
彼は、優しい。
私の下らない悲しさすら呑み込んで包んで、許してくれる。
彼は、優しい。
――なのに世界はどこまでも彼に冷たく牙をむく。

『だから、お前のその手で遠くに行けたなら本望だ』

私が彼の首に指をかけた理由は至極単純だった。
これ以上ないほどの素直な思いで彼を救いたかった。彼を助けたかった。何もかも、柵から放ってあげたかった。

「もう……1回……」
「……」
「次は、できるから」
「失敗して、ばかりなのに?」
「もう大丈夫だよ、だから、もう1回チャンスをちょうだい」
「もういい」
「まだだよ、できるよ、助けられるから、私ならできるから」
「もう、いいよ」

お前の方が、疲れただろう?

指が離される。
――当たり前だ。
好きな人間を殺すことを負担に思わない人間がどこにいる。
死を望んだのは彼だ。
だが死を下すのは私だ。
そんなのフェアじゃない。
私は少なくとも彼の死など望んだ覚えはない。

『楽になりたい』

言ったのは彼だ。
私は、何をしたかった?
助けたい。
死んでほしくない。
救いたい。
楽にしてあげたい。
放ってあげたい。
側にいてほしい。
逃げないで。
逃げないで。
生きて。
生きて。
それが、私のエゴでも。

彼の疵痕に埋もれた手首に触れる。脈はある。馬鹿馬鹿しい。生きている。笑えた。死にたい彼に対して私は生きてほしいと願っている。相反する感情だ。私の願いこそ彼の首を絞めている。絞めて絞めて絞めて、しかし呼吸は殺せやしない。

私に彼を殺すことなどできないのだ。

思った途端に全身から力が抜けた。これが答えだ。そして私の最後の力だ。

「生きてよ」

彼の首を絞め上げ、私は繰り返す。彼は小さく笑った。


きっと、あと30数えたら夜が明ける。





20110206

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