風が、灼熱に焼かれた砂を巻き上げ、吹き抜ける。 四十体のスフィンクスが居並ぶ参道は多くの参拝者で溢れ返っていた。 その先にあるのは砂に覆われたこの国に置いて聖なる場所とされる神殿であった。 清廉な空気が流れる中、長く伸びた参拝者を誘導していた青い髪の神官は顔を上げた。 身に纏う白いローブ。袖口に銀糸で刺繍された模様が浮かび上がっている。 腰に巻かれた青い帯はこの神殿の長である証。 ――空気が揺らいでいる。 静寂の揺り籠とも呼ばれる空間が破られたことに神官長ジェレミア・ゴットバルトは眉間に皺を寄せた。 入り口から聞こえる喧騒と荒々し足音。 なりません、お戻り下さい、とひっきりなしに飛びかっている。 参拝者もいる中、これは神殿の威信に関わることである。 見逃すわけにはいかない。 側に控えていた若い神官に後は任せると言い残し早足で向う。 後で王宮に苦情をと考えたときだった。目の前を駆け抜けた風に思わず足を止めた。 「ルルーシュ!」 聞こえてきた声にそれがただの風ではなかったと気付く。 若々しい、生まれたての風そのもの。 ジェレミアは相好を崩した。 「スザク様、ここは神殿でございます」 少し強い口調で若き風が向かう先に言う。 風が止み、現れたのは十にも満たない少年だった。 勝ち気な光を宿した瞳はオアシスと同じ色。ふわふわとした茶色い癖毛。 日に焼けた肌に浮かぶ満面の笑みにジェレミアも自然と顔を緩めていた。 ジェレミアに気付くと途端に不機嫌そうに頬を膨らませ睨み付けてくる。 「ジェレミア!!俺は次の王様なんだぞ!!」 「分かっておりますよ、王子」 笑みを浮かべスザクの前に膝を折ったジェレミアは敬意を表すために深く頭を下げた。 彼はこの国を治める次代の王。 ゆっくりと顔を上げ未だ怒ったままのスザクを真っ直ぐ見つめる。 「ルルーシュ様は只今祈りの間にて瞑想中でございます」 そう伝えれば幼い王子は渋々ながらもおとなしくなる。 ルルーシュは彼の大切な友人であり、この神殿において、いやこの国において聖なる地位とされる星の祈りにつくものである。 神の声を聞き、人々を導く者。 星の祈りの役目とその重みを幼い王子はすでに理解している。 やんちゃで悪戯ばかりをしている粗野な者であると王宮ないでは侮蔑な目さえ向けられているが、ジェレミアはそうは思わなかった。何度注意しても神殿内を駆け回ることもあるが、神殿が掲げる規律を破ることはない。 星の祈りである友に会うときは必ず清めと洗礼を受けてからと教える前から彼はそれを実行していた。 湿り気を帯びた癖毛がその証。彼は賢い。 王宮で流れる自身の評価も知っているだろう。それでも陰ることのない翠。 王宮内の人間はそんな彼の姿を知っているだろうか。 ジェレミアは臆することなく覗き込んでくる未来の王に再度頭を下げた。 「もうすぐ終わますから、お待ちになりますか?」 ジェレミアの言葉にスザクの瞳が輝き出す。うん!と大きく返事をした太陽の名を持つ少年は中庭で待つとだけ言い残し駆けていった。走ってはなりませんぞ、という声は残念ながら届かなかったようだ。 だが、そんな真っ直ぐな気性がジェレミアには眩しく映る。 次代を担うのは、彼らだ。 ジェレミアは星の祈りの名を背負う少年を出迎えるため、祈りの間に足を進めた。 ***** 水を含んだ風が走り行くスザクを追い越して行く。 その風の滑らかな感触は、日差しで焼けた肌の火照りを優しく癒す。 若葉がもゆる雨季のみずみずしさを感じ自然とスザクの気持ちは高揚してゆく。 それは、ここが天上の神を祭る場所だけでなく、確かな水としなやかな木々が溢るるオアシスだからだ。 灼熱の太陽が治めるこの国は、乾き切った砂で溢れている。 砂の大地で育ったものにとって、水は何物にもかえがたい唯一無二の存在だと言っても過言ではない。 走るスザクの軽やかな足音が立ち並ぶ柱に反響し、リズミカルな音色を幾重にもわたり響かせ続ける。 ようやく走り抜けた先にあったのは、眩しい光が吹き抜ける中庭と一面に広がる青空だった。 並ぶナツメヤシの木々が葉を揺らすたび陰を地面に反射させていく。 一つ一つの葉や枝の姿を寸分変わらず、地面に映す。 スザクは大きく息を吐いた。 誰もいない。静かな空間。 柱の傍から見える中庭は澄み切った青空と太陽の光を浴び、生き生きと輝く。 まばゆいばかりの光溢れた世界が不意に怖くなった。 いつもの見慣れた風景なはずなのに、まるで目の前に大きな壁が立ちふさがっているように感じたのだ。 外はこんなにも明るいのに、たった一人取り残されてしまった。 ここから先は入ってはならない。 そう言われているようでスザクの足は竦んで動かなかった。 「何を怖れているんだ?」 聞こえてきた声に反射的に身構えたときだった。 強い風がスザクの目の前を吹き抜けた。 中庭の奥、神官たちが清めを行う聖池のほとりに立つ女に気付いた。 長い腰まで届く真直ぐな髪は命溢れる若葉と同じ色をしていた。 ほっそりとした肢体を包む白いローブは、神に仕える神官の証である。 華奢な身体は、まだ成熟していない少女といってもいい。 白い肌は砂漠で生きるものとは思えぬほど透き通り、精巧な人形とでも呼べるほど整った容姿をしていた。 スザクはこくりと喉を鳴らした。 彼女が向けてくる視線に自然と身体が強ばっていく。 ただ見ているだけなのに、鋭い刃を向けられているような鋭さを彼女の金色の瞳から感じたのだ。 逃げ出そうと後退りしたときだった。 ふと、張り詰めていた空気が和らいだ。 スザクを見据えていた瞳が柔らかく細められたのだ。 同時にスザクの身体からも力がふっと抜ける。 「お前が次代を紡ぐものだな」 問われた意味がよくわからず、スザクは素直に首を傾げた。 「ねーちゃん、誰?」 沸き起こる疑念を隠すことなく剣呑な眼差しで問う。 回廊を吹き抜けた風と共に彼女に届ける。 彼女はゆっくりと赤い唇を綻ばせた。 「私か?私はこの国と共にあるものーー」 「なにそれ」 益々意味が分からないと口を尖らせたスザクに対し、彼女は声を上げて笑った。 軽やかな笑い声が生い茂る緑を揺らす。 ひとしきり笑った後、警戒している上不機嫌なスザクをまっすぐ見つめた。 「なるほど、幼いながらも大した判断能力だな。疑うのも大切だかな、今は必要ない」 「なんで?」 「私の服装が何か、分からないか?」 彼女の纏う服装を思い出し、スザクは「あ!」と声を上げた。途端に顔が朱に染まる。 「ごめんなさい……」 「何故謝る?」 「だって、神官は偉い人なんだろ?」 だから、ごめんなさい。 スザクは素直に謝った。 尊敬する父がいつも言っていたのだ。 神殿に仕えるものたちは神と共にあるのだと。 神に祈りを捧げ、王国を導く尊き存在。 頭を下げたスザクの頬にさらに熱が集まった。 どれほどそうしていただろう。 ゆっくりと顔を上げたスザクが見たのは彼女の笑顔。 その微笑みの先に亡くなった母の姿が見えた気がしてスザクは目を見張った。 「お前はこの国が好きか?」 「え?う、うん。俺、この国が好きだよ。ねーちゃんは?」 「私も好きだよ」 優しく彼女笑ってくれる。 それが何故か嬉しくて、スザクも満面の笑み浮かべた。 ここへ来たとき感じた恐怖感はいつの間にか嘘のように消えていた。 彼女がここにいてくれている。ただそれだけで嬉しかった。 「でも、この国も好きだけど同じくらいルルーシュも好きなんだ!」 「ルルーシュ?」 「新しく星の祈りに選ばれたヤツで、あいつ本当にすごいんだ。頭も良くて、きれいだしやさしいし」 「凄いな、その子が好きなのか?」 「うん!俺、ルルーシュといられるなら王位なんていらない」 「そうか……」 無邪気な笑顔と共に紡がれた願い。 それがどれほど大きな意味合いを持つか、幼い王子は知らなかった。 明るい笑顔が中庭に響き渡る。 誰もいない静かな中、ナツメヤシの木々だけが小さな逢瀬を見守っていた。 その側を涼やかな風が通り過ぎていった。 END |