天界と地上を支える柱が存在する森には、小さな黒猫姿の神様と翡翠の瞳を持つ青年が住んでいました。 明るい日差しを燦々と地上に送っていた太陽を隠しはじめた厚い雲は、みるみるうちに空全体を覆い尽くしました。 光が遮られ深緑を深めた木々の合間で、神様と翡翠の瞳の青年は早足になりながらログハウスを目指していました。 雨がすぐ傍まで近づいているのでしょう。 肌を擽る風は湿り気を帯び、重く感じます。微かに、水の甘い香りがしました。 青年の前を走る黒猫姿の神様は、地面から顔をのぞかせている太く立派な木の根を器用に渡り歩いています。 しなやかな黒い背の動きに青年は、顔を綻ばせました。 天界にいたころの神様は、どういうわけか運動神経というものが皆無で、障害物がなにもない場所で転ぶという些か不名誉ともいえる特技を持った方でした。 そのため、青年はいつも目を離すことが出来ませんでいた。 しかし、地上に降り、猫の姿となってからは、派手に転ぶことも障害物と出会うことなく平穏に過ごしています。 それが、この森の優しい気質であることを青年は知っていました。 ぴょんぴょんと根を渡る神様の小さな身体を、風の精霊たちが触れるふりをしながら交代で支えています。 ほっそりとした前足が根に届くと、直立していた木々はゆっくりと腰を落とし足場の悪い根を横に押し広げています。 そして、後ろ足が遠退く瞬間、根を押し上げ、隣の木へとバトンタッチをし、神様を見送るのです。 木の一族はとても寡黙ですが、かわりに優しく見守り温かく包み込む心を持っているのです。 だからこそ、動物たちは、木の幹や太い枝に我が子を託すことが出来るのです。 微笑ましい様子に青年の口元が緩みました。ふと、漏れた笑みに神様の耳がぴくりと揺れました。 「何だ、スザク。面白いものでも見つかったのか?」 とんとんと、リズミカルに跳ねる肢体が問いかけます。 青年は笑顔でいいえ、と答えました。けれど、緩む頬を止められません。 咎めるように青年の茶色い癖毛をつんつんと引っ張っている感触にふと見上げれば小さな足が見えました。 そして、鼻の上に降りてきたのは、お腹から膝までの赤い衣を身につけ桃色の頬をいっぱいに膨らませた小さな花の実の妖精でした。 目を寄せた青年の翡翠に映った妖精の赤く真ん丸の瞳が大切な神様を笑うな!と抗議しています。 青年は驚かせないようにごめんと小さな声で謝りました。 神様の口からも不満げな唸り声が聞こえたと思うとそれはすぐにかき消されました。 「ほわあああ!!」 突然聞こえてきた神様の叫びにびっくりした青年は、根から転げ落ちた神様を助けようとしましたが、その身体がぴたりと止まりました。 驚き悲鳴を上げた花の妖精は姿を消してしまいました。 目の前に立ていたのは、大きな二本の触覚。くるくると伸びたその後ろから見えたものは縞模様が描かれた殻を背中にのせた大きな大きなカタツムリでした。 青年の背をゆうに超え、ゆらゆらと揺れる触覚が青年を捉えると、空気が響き、青年の耳を轟かせます。 『おやぁ〜。これはこれは、珍しい。あなた様は地狼であられますかな?』 「こんにちは、大きな貴人殿。この姿でお会いするのは、初めてですね」 青年がにこりと微笑むと、豪快な笑い声が森を渡ってゆきます。 ふと、彼の小さな黒い眼が地面に注がれると、今度は大粒の汗が青年の元に落ちてきました。 視線の先は、地面に転がった神様です。ぐったりと蹲る姿に青年の顔からも血の気が引き、どんどん青くなります。 青年は急いで神様を抱き上げました。 「ル、ルルーシュ様!どこか、お怪我でも!?」 抱き上げた小さな身体を目の前に掲げくまなく確認する青年を、神様の後ろ足が止めました。 頬を引っ掻かれた青年はびっくりして、動きを止めます。 そして、不機嫌なアメジストを覗きこみました。 「この馬鹿!どこ見てるんだ!」 「え……?」 言われた意味が分からなくて首を傾げた青年でしたが、すぐ目の前、視界に映るものに顔を赤らめました。 そして、すぐに謝罪の言葉を述べると、神様は渋々ながらも青年の腕の中におさまってくれました。 深く息を吐くと、目の前で、冷や汗を滝のように流し続けるカタツムリに声をかけました。 「そんなに畏まらなくていい。よそ見をしていたのは、私の方だ。もう雨が来るか?」 『へ、へえ!もう降ってまいります』 大きな触覚を小さくし、神様に頭を垂れる彼は、叱られた小さなこどものようでした。 そんな彼を神様は叱ることも、怒鳴ることもせず、ただの世間話のように話しかけるものだから、頭上から降りしきっていた大量の冷や汗もぴたりと止んでしまいました。 それと同時に厚い空から降りてきたのは、大粒の雨です。 青年は神様が濡れないように木の下へ身体を滑り込ませました。 さらさらと舞い降りる銀色の粒は、たくさんの命を支える何より尊い宝石です。 新緑鮮やかな葉の合間から、ぽつり、ぽつりと雫が伝うたび、青年の翡翠の瞳が輝きを増してゆきます。 「今年も、恵みの季節が訪れましたね」 「ああ、一年でもっとも清らかな季節だ」 青年の見つめる先には、空からの贈り物を全身で受けとめ、喜びに震えるカタツムリたちの群れが見えました。 雨は地上に命の元を届けると同時にすべての穢れを清める力も持っています。 銀色の雫を身にまとった木々が、若葉を揺らし、感謝の言葉を空に囁いています。 ふと、青年は側にある幹に小さなカタツムリの妖精を見つけました。 背にある殻を揺らし一生懸命に、雨の元に向かっています。 その姿が微笑ましくて、青年はひょいと指でつまむと、濡れて輝きだした地面に下してやりました。 突然のことに驚き、固まっていたカタツムリの妖精は青年を仰ぎ見ると、すぐに仲間の元に駆けてゆきました。 青年の耳に届いたのは、小さな小さな声。 ありがとうと紡がれた言葉に、青年は笑顔で振り続ける雨を見つめました。 新緑の眩しい季節を過ぎ、訪れたのは、豊かな水あふるる季節です。 end |