誰かが、泣いている――。 神様は耳を澄ませました。 遠くで、小さな地狼の姿が見えました。広い丘。 茶色いふかふかな毛並みに覆われた小さな背は、黒く汚れ、震えています。 精一杯の声を上げ、小さな地狼は咆哮を上げました。 一度・二度と、声が枯れるまで小さな地狼は声を上げ続けています。 その視線の先、豊かな森は、赤い炎に包まれていました。 ふと、耳に聞こえてきた小さな声に神様は身体を起こしました。 やわらかな光が窓から降り注いでいます。 ガラス越しに鳥たちの戯れが見えました。 二羽の鳥が寄り添い、羽を広げています。 先ほどまで、青年とともに森に出かけていました。少しだけ遅めの昼食を取ったあと、どうやらソファーで眠ってしまっていたようです。 身体を起こした神様の瞳に入ってきたのは、傍で眠る青年の寝顔でした。 胸の上に抱きかかえられていたことに少し驚きましたが、何より驚いたのは青年の頬を伝う涙でした。 「スザク?」 *** ゆらゆらと、赤い色が見えて青年は立ち止まりました。陽炎かなにかでしょうか。 青年は辺りを見渡しました。 薄暗くて何も見えません。右を向いても左を向いても、ただ暗闇が広がるばかりです。 ここが何処なのか、青年には見当もつきませんでした。 先ほどまで、確かに神様とともにログハウスにいた筈でした。 ルルーシュ様、と声を出そうとして、ふと声が出せないことに気付きました。 喉に何かつかえがあるような、息苦しさを感じました。 胸を抑えると、珍しく早い鼓動が聞こえてきました。 このまま立ち止まっている訳にもいかないと、青年は先ほど見えた明かりを目指して歩き始めました。 光に近づくにつれ、汗が流れ落ちる感覚がしました。 それは汗ではなく背中を伝う冷たいもの。 怖い、と誰かが叫びました。 逃げなさいと、また誰かが叫びました。 (誰、だろう……) 光が辺りを覆い尽くし、青年は目を閉じました。 光が遠のくのを閉じた瞼の奥で感じました。眩しいほどの閃光が消えてから、青年はゆっくりと目を開けました。 見えたのは、一面にそびえ立つ翠の柱。 深い、深緑のにおいと濃い空気。 ここは、遥かな時から存在する古の森でした。 懐かしいと、青年は思いました。 どこかで見たことがあると、心が言っています。 何故、と首を傾げたときでした。 視界の隅で、赤い光が見えました。 目の前にあった森が一瞬のうちに炎に包まれたのです。 青年は、呆然と立ち尽くしました。 叫び声がして、青年は、はっと我に返りました。 多くの鳥たちが外にとび立っています。 木々の合間から動物たちが駆けだしてゆきます。 ああ、駄目だと、青年は声を上げようとしました。 向こうに行けば人が狩るために待ち伏せしていると。 けれど、いくら口を動かしても声は出ず、足も地に縫い付けられたように動きません。 何故、と混乱する青年の脳裏に微かな記憶が蘇り始めました。 幼いころ、家族と森で暮らしていたーー。ここはーー。 青年は目を見開きました。 人間によって森が焼かれ、家族は森を護るためにその命をかけたーー。 動物たちは死に絶え、だれもいなくなった焼け野原。 一人ぽつんと座りこむ小さな地狼が青年の目に見えました。 目を覚ますと、神様が覗きこんでいました。 普段の姿ではなく元の人の姿。 きれいな紫の瞳が見えて、ほっと安堵したことに青年は気づきました。 ソファーの傍、床に腰かけた神様に慌てておき上がったときでした。 ふわりと頭を撫でられ、自分が元の姿ーー地狼に戻っていることに青年はようやく気付きました。 「どうした、スザク」 見つめる先にいる神様が、霞んで見えます。どうして、と青年が首を傾げると頬を銀色の雫が伝いました。 茶色い毛並みの上を静かに伝ってゆきました。 それを神様がゆっくりと拭ってゆきます。 それでも、流れ落ちる涙は止まりませんでした。 止まらない涙と、忘れられない記憶。 「まだ、人が憎いか?」 そう問われましたが、青年には分かりませんでした。 人界から隔絶されたこの場所は、やさしくて、あたたかい。 木々も動物たちも花も鳥も水も、皆、見守ってくれます。 それでも。 それでも、深く、深く傷ついた心は癒せません。 焼け落ちた森は、新たな神と精霊達により、少しずつ蘇っていると空を旅する風に聞きました。でもーー。 優しかった両親も、いつも見守ってくれた兄も姉も、喧嘩しながらもいつも一緒にいた友も。 なくなったものは、もう、戻らないのです。 青年は神様の腕の中で静かに、泣き続けました。 end |