「いらっしゃい、ルルーシュ」 休日の朝、久しぶりに姉夫婦の元を訪れたルルーシュは満面の笑みを浮かべて玄関で迎えてくれた姉――ユーフェミアの機嫌のよさに戸惑った。 ふと、目に入った玄関。 大きな革靴がない。 どうやら義兄は出勤しているらしいとルルーシュは気づいた。 姉は桃色の髪と同じ色のフリルのついたエプロンを身につけ、にこにこと笑っている。 義兄と共にいるからいつもより笑顔なのかと思ったが、どうやら違うようだ。 それと同時に嫌な予感がするのをルルーシュはすぐさま感じた。 いつも笑顔を浮かべ傍にいる人たちを癒す彼女だが、機嫌が良すぎるとき、それは何か新しい事にチャレンジしたときに多くみられる。 それと同時に起こるトラブルに誰かが巻き込まれるのも彼女の機嫌が良すぎるときなのである。 ルルーシュは引き攣る顔を押しとどめながら、笑顔で挨拶をかえす。 取りあえず、この前の礼を言い、帰ろうとしたのだが、すでに腕を掴まれた後だった。 「あの、ユフィ姉さま」 「ルルーシュ、ちょうどいいところに来たわ!今、クッキーを焼いたところだったのよ」 淡いクリーム色の木目が並ぶリビングに通され、進められるまま白いソファーに腰掛ける。 深く沈んだ感触に驚きながらも、傍にいる姉を見上げる。 「姉様?」 テーブルに置かれた皿。 花柄のペーパーナプキンに並べられたクッキーは、様々な形にくり抜かれていた。 ひよこや、花形、楕円、星。 ちゃんときつね色に焼き上がり卵黄が塗られ、きれいに仕上がっていた。 かちゃり、小さな音と共に紅茶を差し出された。 どんなものが飛び出してくるか、心臓が痛いほど鳴っていたが、どうやら杞憂のようだ。 ルルーシュはほっと、安堵の息を吐いた。 どういうわけか、家族の中で唯一人が口に出来るものを作れるのはルルーシュだけである。 母も姉も、手本の本通りに作っても、謎の固体に変化してしまうのだ。 結婚を機に料理教室に通い始めた結果が実ったのかもしれない。 にこにことほほ笑む姉が見つめる中、ルルーシュはひよこのクッキーを手に取った。 ふわりと香るバターが鼻孔をくすぐる。 サクっと音を立てて口に含んだ瞬間、口を抑える。 広がる味に顔が歪む。 「ルルーシュ、どう?」 問いかけに答えたいけれど、今のままではどうにもならない。 涙ぐみ始めたルルーシュは出された紅茶に慌てて口を付けた。 そんなルルーシュを見つめ、姉は不思議そうに首を傾げた。 「どうしたの、ルルーシュ。大丈夫?」 急いで飲み込んだため、むせたルルーシュの背を姉が優しく撫でる。 しばらくして、呼吸が落ちついたルルーシュは大きく息を吐き、項垂れた。 一気に体力を使った気がする。 やっぱり、甘かったようだ。 「あの、ユフィ姉さま……」 「なあに?」 幾つになっても、無邪気で可愛らしい姉。 ルルーシュの自慢である。 だが、これは伝えなければならないだろう。義兄の為にも。 ルルーシュはにこにこと笑う姉に戸惑いながらも口を開く。 「姉さま、このクッキー……」 「ええ、さっき焼いたのよ。おいしい?」 笑顔の姉に罪悪感がつのる。でも。はっきりさせなければならない。 「…………塩辛い、です」 「……え?」 理解できなかったのか、彼女は首を傾げる。 いくら口でいっても、明確な答えは出せない。 星の形をしたきつね色のクッキーを静かに差し出す。 不思議な顔をしながらも受け取った姉が、口に入れる。途端に、顔をしかめた。 すぐさまキッチンに駆け込んだ彼女の後ろ姿を、ルルーシュは苦笑いで見つめる。 何度か水音がした後、ようやく顔を見せた姉は真っ赤な顔で涙を浮かべていた。 「ご、ごめんなさい!初めて上手く焼けたと思ったのに……」 涙をこぼし始めた姉は、きっと義兄を喜ばせるために頑張ったのだろう。 本気で落ち込む彼女を元気づけるため、ルルーシュは来ていたジャケットを脱ぎ、立ち上がった。 袖を捲り、キッチンに向かったルルーシュを姉が呼び止める。 「ルルーシュ?」 「まだ、材料は残っていますか?」 「あ、ええ」 「じゃあ、もう一度作りましょう。時間はまだまだあります。義兄さまのためでしょう?」 頬を赤く染め、姉が何度も頷く。 結婚してもう何年も経つのに新婚当初の初々しさを忘れない姉夫婦が眩しい。 ルルーシュはにっこりとほほ笑んだ。 十分すぎるほどの材料にルルーシュは姉に提案し、クッキーとマドレーヌも作ることになった。 小麦粉をふるいにかけ始めた姉の傍で、ルルーシュは材料を分量どおりに分けていく。 カウンターに視線を移した時だった。 目に入ったのは茶色のA4サイズだろうか。大きめな封筒が置かれていた。 書かれていたのは、母の会社の名である。 手の止まったルルーシュに気付いた姉が、呟く。 「それ、忘れものなの。さっき電話したから、もうすぐ取りにこられると思うわ」 「お母様の?」 「いいえ、お母様の部下の方なの。この前、飲み会の場所としてかりるわ!ていって、ここに来たとき忘れて帰られたのよ」 苦笑いを零す姉に、ルルーシュも乾いた笑みを返す。 おそらく、何軒もはしごした後、ここに来たのだろうと容易に想像できる。 最後に寄った飲み屋が家よりこのマンションの方が近かった。 そんな理由だと思う。 酒豪の母は家で何度も同じ行動を繰り返しているため、今さらであるが、母の部下となった人たちが気の毒である。 「ああ、でも、すごい方がいて、あのお母様と同じペースでお酒を飲んでいたのよ」 「え……?お母様と?」 母のペースに巻き込まれたならば、酒の飲める者でも必ずといって潰れてしまうのだ。 今まで一度だって、あの母と同じペースで飲める人など見たことがない。 ルルーシュは目を丸くして、姉を見つめた。 「外見だけ見れば、お酒なんて飲めないように見えるのに本当に驚いたわ。ええと、たしか、くるるぎ……そう、枢木スザクさんと言ったかしら」 姉がにっこりとほほ笑んで言った。 その瞬間、ルルーシュの脳裏にエメラルドの優しい瞳が浮かぶ。顔に熱が集まり始める。 「あら、顔が赤いけど、どうしたの?」 「え…、あ……何でもありません!それより、はやく作りましょう!」 首を傾げながらも調理に戻った姉を背に、ルルーシュは熱を帯びた頬に手を伸ばした。 心臓の音がおさまらない。 体が震えてしまう。 まさか、本当に彼なのだろうか。 いや、同姓同名の人かもしれない。 でも、もし本当に彼ならば、縁とは不思議なものだ。 彼との繋がりがこんなにも近くにあるとは思わなかった。 深呼吸を繰り返し、熱をおさめようとしたその時。 ふと、聞こえてきたのはインターホンの音だ。 「あら、来られたかしら。ごめんなさい、ルルーシュ。今、手が汚れているからかわりに渡してきて下さる?」 小麦粉で真っ白に染まった手を見せ、姉が困ったように言う。 しょうがない、と手を布巾で拭い封筒を持ち、玄関に向かう。 閉めていた鍵を開け、扉を開けた先、立っていた人影に目を見張る。 「え……、ランぺルージ、さん?」 茶色の癖毛とエメラルド色の瞳。 いつもと同じようにネクタイをきちりと締めている。 驚いたように、目を見開いている。 彼は。 「枢木、さん……」 呆然と呟いたルルーシュの元に、やわらかな笑みが返ってくる。 あの日、初めて彼を見かけたときと同じ、優しい笑顔。 込み上げてくる熱い感情を抑えられない。 あふれ出した想いが零れ落ちる。 「枢木さん、私、あなたが……」 届けたいのは、たった一つの想い。 “好き”の気持ち。 彼の瞳が驚きに染まり。そして。 笑顔に変わっていく。 届いた先には眩しい光が待っていた。 end |