「そんなに怒るな」 「怒っていません」 「嘘だ、ほら、――」 うららかな日差しが注ぐこの部屋は、皇帝執務室である。 先ほどまで公務を放り出し、側に広がる庭園で寛いでいた人物。 それはまさしく、スザクが仕える主その人である。 眉間に皺が寄っているぞ、と、ほっそりとした人差し指がスザクの額を突く。 確かに、スザクは現在進行形で、怒っていた。 怒りの元凶は、目の前にある執務机にようやく腰を据えた自身が仕える主に対して、である。 彼の名は、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。 世界一の大国であるブリタニア帝国を率いる中心人物――いうなれば、皇帝の名を負う彼が、枢木スザクが仕える主である。 白を基調とした皇帝服はスザクの瞳と同じ色であるエメラルドが散りばめられ、彼の容姿をさらに優美に彩っている。 ただの装飾であるはずなのに、それを目にするたび、スザクの鼓動は早まりだす。 今も、そうだ。 照明の光を受け、艶やかに輝く漆黒の髪は、生粋の日本人であるスザクも見たことがないほど、美しいものだった。 それは彼の生母から受け継がれたものである。 彼女の母は、前皇帝の寵愛を一身に受けたマリアンヌ皇妃である。 彼女は民衆から絶大なる支持を受けていたが、後宮内では蔑まれることも多かった。 何故なら、彼女は何の階級も持たぬ庶民層での生まれを持つからだ。 そんな彼女が雲の上の存在でもある皇帝と恋に落ちたことは、巷では有名なおとぎ話である。 ともかく、スザクが仕える主は、男でありながら、その身に宿る美貌で多くの者たちを――彼が知らぬうちに――虜にしてしまうのだ。 彼の騎士として使える枢木スザクも例外ではない。 日本男児であることを誇りに思っていたスザクの心を一瞬のうちに攫ってしまった。 その張本人は肘掛にもたれ掛かるようにして、傍に立つスザクを見上げてくる。 何がそれほどまで面白いのか、彼の笑いは止まらない。 耳に心地よい響きを齎す彼の声は、何時だってスザクの心をかき乱してゆく。 やわらかな、けれど、低く落ち着いた声に身体の奥深くが疼いた気がして、ますます黙り込むしかない。 この疼きが何処から来ているのか。 何を意味しているかなど、スザクはとうの昔に気づいている。 ――だからこそ。 スザクは此処にいるのだ。 生まれ故郷から遠く離れたブリタニアという国に。 「私が悪かったよ。だから、機嫌を直してくれ」 彼の傍で直立したまま、握りしめていた手を取られる。 己よりも低い体温に包みこまれた。 途端に心臓が暴れ出す。 鳴り響く心音が耳奥で聞こえ、顔に熱が集まる。 駄目だ!と自身を叱咤した頃にはすでに遅かった。 「耳が赤いぞ」 白い手が、耳に触れてくる。 反射的にびくりと身体が跳ねた。 くすくすと笑う声に全身が羞恥で逆立った。なんという恥辱。 けれど、彼からもたらされたそれは、甘美なる禁断の果実のようにスザクの全身を犯してゆく。 完全に――遊ばれている。 それはいつものことだが、今日の主は一段と意地悪である。 スザクは唇を引き結んだ。 達者な口と天才と評される頭脳を持つ主に勝てる見込みなど、ほぼ零に近い。 奇跡的に反撃の一手を繰り出せたとしても、手痛い仕返しが来るであろうことは目に見えている。 ここは、沈黙を守るべきだと本能、いや枢木スザクのすべてが語っている。 黙り込んだ己に対し、彼はつまらなさそうに息を吐くと、渋々と言った様子で鎮座し続けている書面と向き合い始めた。 少し傾き始めた日差しが、執務室に落ちる。主が座る机の後。 そこには、どれも厚さ二十センチは超えるであろう分厚い書籍が所狭しに並べられている。 公務に必要なものだろうが、スザクは一度としてその中身を見ることはない。 自慢ではないが、スザクは皇帝の騎士でありながら、文官としての能力を欠片も持ってはいなかった。 自慢というよりも大いなる難点であるが、主が求めたものはただ一つ。 護り抜くということである。 庶民での母を持つ彼には、いまだ多くの敵が存在する。 流石、皇族とでもいうべきか、暗殺を行うに躊躇いはなく、彼を皇帝の座から引きずり下ろす算段を日々練っている。 スザクが彼の騎士として抜擢された大きな理由の一つが、彼がもつ超人的な身体能力であった。 ブリタニアに来てから、ラウンズと引けを取らないとも噂された枢木スザクは、今や、全世界にその名を轟かせている。 しかし、スザクにとってはどうでもいいことだった。 むしろ迷惑極まりないことでもあった。 世間で噂されるように己は、美しい主を、命をかけて護る崇高な精神を持った騎士ではない。 ――己が、ここにいる理由は、たった一つの想いゆえ。 書面に目を走らせる主の横顔から目が離せない。 長い睫に縁取られた瞳は、ブリタニアでもっとも高貴な紫水晶である。 整った造形は、人形じみている。 だが、彼が誰より心優しい人であることをスザクは、七年前に知った。 ふと、彼の手が止まった。 「すまないが、紅茶をいれてくれ」 それだけ言うと、彼の視線はまた書面へと戻った。 先ほど、スコーンとともに運んできた紅茶は冷めてしまっている。 入れ直す旨を簡潔に告げ、部屋を後にしようとしたスザクを止めたのは、主である。 「え……?」 「だから。それで構わないといっている」 何度も同じことを言わせるなと、早口に言い放った彼の頬が微かに赤く染まっていることに気付いた。 胸のうちにあたたかな温もりが溢れだす。 スザクは緩み始めた頬を、口元を止められなかった。 素早く紅茶を彼の前に差し出した。 眉間に皺を寄せた主がカップに口をつける。返ってきた言葉は、紅茶の駄目出しではなく、小さな謝罪の言葉。 ――すまない。 ただ、それだけなのに、スザクは泣きたくなった。 さっきまで感じていた憤りは消え失せ、新たに宿っていたものは、確かな喜びだった。 今度こそ、スザクは彼に向け、微笑んだ。 end |