微かに聞こえる音。耳元で聞こえる。 身体は、泥の中にいるように身動きが取れない。 必死で、意識を手繰り寄せ、見え始めた光に手を伸ばす。見えたのは、青い色だった。 「お、目が覚めたか。全然起きないから、危ないかと思ったぜ」 しゃりしゃりと小気味い音が連続でなっている。視線を覗きこむ男にむければ、彼の手のひらにおさまる赤い色に気付いた。 「り、ん……ご?」 「おう、あんた昨日から全然起きないし、これくらいなら食べられそうかなって。起きられそうか?」 問われて頷く。彼の手を借り、ゆっくりとおき上がるが、軽いめまいがしてキツク目を閉じた。背中に触れたぬくもり。目を開けると背中を支えてくれていた。 その姿にスザクの姿が重なって、胸が痛んだ。 「あんま無理すんなよ。熱だってさがってないんだし。食えそうか?」 ぎこちなく頷くと、彼は持っていた器を差し出してきた。それを受け取る。ガラスの器に盛られていたのは、すりおろしのリンゴ。甘酸っぱい香りが鼻腔を擽った。 だるい両手を持ち上げ、スプーンを手に取り、口に運ぶ。ただ、それだけのことなのに身体は言うことを聞かない。かすかに震える両手をぼんやりと認識しながら、嚥下する。からからに乾いた喉にすっと潤いが戻る。 「ありがとう」 掠れた声で言えば、傍にいた彼は相好を崩した。 それから後も、朦朧とした意識のはざまで彼の姿を見た気がする。額に触れた冷たい感触が心地いいと思った。 そのころになってようやく公園で会ったのが彼だったのだと気づいた。 ようやくおき上がれるようになったのは、一週間を過ぎた頃だった。 肺炎を起こし掛けていたらしく、危なかったと白髪混じりの医者が言った。その横に立つ小柄な壮年の男は苦笑いで俺を見守っている。彼はリヴァルの父だと目が覚めた後に聞いた。 「あんた、帰るとこないのか?」 一通りの診察を受け、医者が返った後、傍の椅子に腰かけたリヴァルが言った。 返る場所なんて、始めからないし、なによりもう、あの男の元に戻ることなど考えられない。それにあの時の俺を助けたというならば、俺の身体も見た筈だ。なのに何故何も言わないのだろうか。 何も言えなくて口を噤んでいたら、医者を見送るために退出していたリヴァルの父親が顔を覗かせた。 「おら、病人相手になにしてる! ルルーシュ君、何か事情があるんだろう? 話したくないなら、話さなくていい。いまは、身体を休めなさい」 「オヤジ〜! 今、俺がそれを言おうとしたとこなんだよ!」 「お前は普段うるさいくらいなのに、肝心なところで一言たらん! だからいまだに彼女が出来ないんだよ」 「うっせ! それとこれとは、関係ないだろ! 俺に彼女が出来ないのは、一途だからだよ」 「ほらみろ、ただの根性なしだろ? カレンちゃんは美人で気前が良くて、頭もいい。早くせんと、いい男にかっさらわれるぞ〜」 「つか、関係ないだろ!」 賑やかな会話。仲のいい親子のやりとりにいつの間にか笑っていた。 ここは温かい場所だった。 **** 「今日からお世話になります、ルルーシュ・ランぺルージです」 目の前に並んだ三人の従業員に向い頭を下げる。リヴァルの父親は、小さな会社を経営している。主に自動車の修理をおこなっているが、顔馴染みの客がほとんどといっていい。リヴァルと彼の父親、そして母親をいれると六人の本当に小さな会社である。 行き場のない俺に彼の父親は朗らかな笑顔でこう言った。『うちで働かないか』と。普通の会社で働いたことのない俺をどうしてと問いかければ彼は笑いながら言った。 『行くとこなくて暇なら手伝ってくれ』 詳しい理由も聞かず、見知らぬ俺を迎えてくれたのは、賑やかで明るい家族だった。その言葉に泣いた俺を励ましてくれたのは彼らに他ならない。 「うわ〜、すっごく綺麗ですね! あ、私事務のシャーリー・フェネットです! 分からないことがあったら何でも聞いて下さいね!」 茶色い髪を後ろで一つにくくった女性が笑顔で手を差し出す。握り返せば、若葉に似た瞳が柔らかく細まり。それが綺麗だと思った。 「あ、俺は玉城な! 分かんないことあったら、俺様にまかせな!」 胸を張り、手を差し出したのは黒い髪を逆立てた男。人懐こい笑みを浮かべ、目の前までやってくる。だが聞こえてきた鈍い音と共に床に座り込み膝を抱える。 「いって〜〜〜!」 「変なこと言ってないで仕事仕事! もう、この馬鹿の事はほっといていいからね」 溌剌と答えたのは彼と同じように作業着を着た女性だった。肩までの赤い髪を一つに縛っている姿は凛凛しくもあった。 「紅月カレンよ、よろしく」 「よろしくお願いします。紅月さん」 「あら、やだぁ! カレンでいいわよ! こちらこそ、よろしくね! ルルーシュ」 蹲ったままの玉城を引っ張り、奥の作業場に向かう。 その姿を見送っていると聞こえてきたのはリヴァルの笑い声だった。 「はは! わりいな! うちの連中は賑やかで驚いただろう?」 そんな事はないと微笑みを返せば、安心したように笑う。 「カレンはうち一番の器用でさ。俺達と一緒に仕事してるんだ。常連も彼女目当てで通ってくる奴も多い」 リヴァルが彼女を褒めていると奥から怒鳴り声が聞こえてきた。カレンだ。「変なこと言わないでよ!」と慌ててリヴァルのもとに駆け寄る。真っ赤に顔を染めている姿は微笑ましいものだった。 明るい職場と、賑やかな空間。ここが俺の新しい場所だった。 初めて体験する普通の職場。すべてが驚きの連続で、知らないことばかりだった。戸惑う俺に笑顔で教えてくれる人たち。覚えることも多くて大変だったけれど、楽しかった。そして何より必要とされることが嬉しかった。 いつもと同じように机に向い伝票を整理している時だった。 「あ、ルルーシュ君。悪いんだけど、郵便局まで言って来てくれないかしら。荷物引き取りに行く予定だったんだけど、これからお客が来るのよ〜」 おばさんが困ったように受話器を持ちながら言う。相手は常連だろうか。 「ええ、わかりました」 すぐに立ち上がる。いってらっしゃいとシーリーが見送ってくれる。その言葉が嬉しかった。 引き取りように印鑑を持ち、外に出たところで後ろから呼び止められた。 「ルルーシュ!」 「ん? リヴァル?」 息を切らし、汚れた軍手を外す姿に笑みを返す。どうした?と問いかければ苦笑いが返ってきた。 「お前、郵便局の場所知らないだろ?」 問われてはたっと気付く。そうだ、このあたりの地理はいまだ疎かったのを今思い出した。 「すまない」 詫びた自分にリヴァルの満面の笑みが返ってきた。 next |