薄桜鬼夢小説
□晩冬
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「よろしくお願いします!」
一方、診療所にいた千鶴と同じくらいの年の娘は、そう勢いよく頭を下げた千鶴に朗らかに笑って言った。
「そんなにかしこまらないで。雪村千鶴さん、ね?」
彼女は母の知人である年配の女性が紹介してくれた千鶴に好感触を抱きながら言った。
「杉村きねです。父が藩医をしているのは…千鶴さんもご存知よね」
「はい、お伺いしています」
「簡単な医療には携わったことがあるんですって?」
「あ、はい…父が医師だったものですから」
新選組で…などと言うことはできず、千鶴はそう言って苦笑した。この診療所は藩医…松前藩に従属する医師のものだ。自分を置いて歳三が蝦夷に乗り込んだ際、旧幕府軍が新政府軍である松前藩と戦ったのを千鶴は忘れてはいない。
「本当に手伝いのようなことしかできませんが…」
「あら、大歓迎よ!」
屈託なく笑うきねに、千鶴は旧友の面影を重ねていた。彼女は今も京で無事に生きているだろうか。そんなことを思いながら、きねに案内された千鶴は部屋の奥へと進んで行った。
診療所は想像していたものよりも広かった。しかし、所々が傷んでおり、千鶴が辺りを見回すのを隣で見ていたきねが苦笑する。
「ぼろぼろでしょう?」
「え、あ…すみません……」
「いいのよ、私だってそう思うんだから」
くすくす笑うきねは天井を見上げた。
「あなた、確か江戸から渡ってきたのよね?」
「…はい、二年ほど経ちますけど」
千鶴は余計な詮索を免れるために、箱館戦争が集結してからこの松前に来たということにしていた。質問の意図が掴めずにおずおずと返事をすると、きねがうんうんと首を振った。
「それならいいの。いえ、そうじゃないと困るんだけど…」
何か理由がありそうなのはわかったが、千鶴は特に何も言わなかった。訳ありなのはこちらも同じだ。
「実は、ね――」
きねがそう切り出したその時、診療所の奥からきねを呼ぶ声が響いた。きねはそれに返事をして、ちょっとごめんねと奥に進んで言った。
「あなた、お客様の前で大声出さないでよ!」
よく通るその声に千鶴はふっと微笑んだ。どうやら相手はきねの夫のようだ。
「今日、客が来るなんて言ってたか?」
夫の方は地声そのものが大きいようだ。千鶴は奥でのやり取りを気にしないように、自分がこれから世話になるであろう診療所を眺めていた。
「――ごめんなさいね、待たせちゃって」
しばらくして苦笑しながら戻ってきたきねに千鶴が首を横に振ると、きねはほっとしながら口を開いた。
「今の、うちのお婿さんで私の夫なんだけど…今回、千鶴さんには私と一緒に夫の手伝いをしてほしいの」
「…お手伝い、ですか?」
診療所で簡単な仕事、と聞いていた千鶴は少なくとも医療関係の仕事を与えられるとばかり思っていた。想像とは少し違う内容だ。手伝いくらいしかできないとは言ったが、本当に手伝いだけをすることになるとは思っていなかった。
「そう。夫が私の父の跡を継ぐまでの間、この診療所でね」
医師は世襲制がほとんどで、親の側で見習い、親の隠居に伴って跡を継ぐのが習わしだった。
「今、顔を見せに来るわ。ちょっといかつい感じがするかもしれないけど…気にしないでね。見た目と違ってすごく優しい人だから!」
多少のろけが入っているようにも聞こえたが、結婚してまだ日が浅いのだろう。千鶴は彼女の雰囲気からそう察して微笑んだ。すぐに廊下を歩く足音が響いてきて、千鶴は無意識のうちに背筋をぴんと張っていた。
「お、待たせちまったな」
背後から聞こえるその声に千鶴の鼓動は不意に速くなる。緊張か、それとも別の何かか――理由がわからないまま、千鶴はゆっくりと振り返った。
「紹介するわね、こちら、雪村千鶴さんよ。そして――」
奥から姿を現した男が、口をぽかんと空けたまま立ち止まった。千鶴の目は見開き、時が止まったかのように動くことができなかった。
「あ、あんた…千鶴ちゃん、か?」
その瞬間、千鶴の目からは音もなく涙が溢れ出していた。彼女の脳裏には頼もしい微笑みを最後に背中を向けた彼の姿が蘇る。
「な……永、倉…さん――!!」
震える声で千鶴がそう呼びかけると、その男――新選組二番隊隊長、永倉新八はこみ上げる涙を飲み込むように口元を手で抑えていた。