無双夢小説
□夢から覚めたら
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それからというもの、名無しさんは凌統とことごとく時間をずらし、城に詰めている時は仕方ないとしても邸にいる時は二人きりにならないように細心の注意を払った。それは凌統も同じで、部下としての名無しさん以外には興味のかけらも持たないような日々が続いた。戦の時が近付くにつれて城に詰めている時間も長くなる。それでも二人は必要最低限の言葉しか交わさなかった。
そして出立の前夜。名無しさんが帰路につくのを見計らったように一人の男が名無しさんの前に姿を現した。それは名無しさんに婚姻を申し込んでいる男だった。
「待ってたよ」
暗闇からかけられたその声に名無しさんは背筋を震わせた。
「こんな時でもないとゆっくり話せないと思って」
婚儀についての話をすることを匂わせた男に名無しさんはとうとう対峙しなければならない時がきたのだと観念したように顔を強ばらせながらも微笑んだ。
「あの話だけど…そろそろ答えを貰えないかな」
唐突にもその話題を切り出した男は余程自信があると見える。彼の上っ面に騙されて涙を流してきた女官が少なくないことを名無しさんが既に知っているとは思っていないようだ。だが、名無しさんが懸念していたのはそんなことではない。いくら凌操が「お前の好きにしていいんだぞ」と名無しさんに言ったとしても、この男の家柄はそれなりに上の方なのだ。もちろん凌家には劣るが、それでも昔、凌操に拾われただけの名無しさんが楯突ける相手ではない。
自分の本来の身分が貧しいことを揶揄されて嫌な思いをしたことなど数えきれない。それに反して見かけだけは整っていると揶揄されることもしばしばだ。だから名無しさんはなるべく目立たないように、ひっそりと生きてきたつもりだった。その代わり、自分を拾ってくれた凌操、そして最大の敵でありながらも最愛の人である凌統の役に立てるようにと戦場では男顔負けの武功をあげてきたのだ。
男だ女だと色恋の経験を積む余裕など彼女にはなかった。一生、報われない恋心を秘めたままで凌家に仕えようと思ってきた。そんな名無しさんの本意を知ってか知らずか、この男は名無しさんに近づいた。器量も良く、なにせ拾われたからといっても凌家の端くれだ。婚姻関係を結べば地位と美しい妻の両方が手に入るのだ。狙わない理由はない――
「どうなんだ、名無しさん?」
自分を断るはずはない、そう思っている男は一歩名無しさんに歩み寄る。名無しさんはとっさに一歩身を引いた。
「私は…誰に嫁ぐ気もないの」
「そんなふうには見えないが?」
男が更に一歩踏み込む。名無しさんの退路は凌家の敷地にそそり立つ大木に塞がれた。
「何なら君が…断ることができないようにしてしまおうか?」
名無しさんの気持ちが自分のそれに反していると今更気付いたその男は、焦る胸の内に駆られるように名無しさんの顎に手を伸ばした。そんな男の強引さは、名無しさんの選択肢をどんどんと減らしていく。こんな自分に良くしてくれた凌操の顔に泥は塗りたくない。できるなら穏便に済ませたかったが、名無しさんにはもう力でこの男を黙らせる方法しか残されていなかった。残された僅かな理性を振り絞って名無しさんは言った。
「大声を出すわよ」
「やれるならやってみろよ、俺を拒めばどんな手を使ってもお前をここから追い出してやる。後ろ盾がないお前は所詮その程度の身分なんだからな」
いつも自分に暗い影を落としてきた核心を指されて名無しさんは押し黙った。男は薄ら笑いを浮かべ、名無しさんの唇に自分のそれを近付けた。
「…ここ、どこだと思ってんの?」
静かな闇を切り裂くような冷たい声が二人の時間を止めた。我に返った男が振り返ると、そこにはいつものように気だるそうな凌統が立っていた。しかし外見からは判断できない怒りを纏っている。それに気付いた名無しさんは男が呆気に取られている隙に男の手を払いのけて離れた。
「うちの名無しさんに何か用?」
初めてそんな言葉を凌統の口から聞いた名無しさんは、本人の意思とは無関係に胸を高鳴らせた。
「り…凌統、殿…」
男は声を震わせて頭を下げる。対峙する相手が一瞬のうちに代わってしまった。実力でも権力でも、彼が凌統にかなうはずがない。
「明日、戦だって知っててこんなおめでたい事ができる奴がまさかこの国にいるとはね」