無双夢小説

□怪我の巧妙
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「――てことなんだけど」


翌日。陸遜の執務室には凌統の姿があった。昨日名無しさんと「二人で」会ったから、と切り出された時には軽い殺意すら抱いた陸遜だったが、凌統の話は今の自分にとって、とても興味深いものだった。


「で? どーなのよそっちの怪我は。まさか本当に機能しなくなっちゃってたりして」


「ふざけたことを言ってると丸焼きにしますよ? 十分に健康ですからお気遣いなく」


「いや…健康ってゆーか、ある意味不健康かと」


凌統の言わんとすることは陸遜にも察することができた。結婚を誓った年頃の男女が同じ屋根の下で暮らしていて何もないほうが不思議なのかもしれないが。しかし陸遜にとっては、名無しさんがまるで「陸遜さまが抱いてくれない」というような話題を凌統に持ちかけたことの方が驚きだった。


「私はてっきり…名無しさんの方にまだ『その気』がないんだと」


「まあ、その気がなかったらあんなことは俺に聞いてこないと思うけどね」


「…そういうことなら、名無しさんの気持ちの準備もどうやら整ったようですね」


凌統は首を傾げた。あの名無しさんがあらゆる意味で陸遜と結ばれることを望まないはずがない。これは過去に何かあったな――その方面の経験には長けている凌統は何食わぬ顔をしながらそう考えた。


「そういやさ、どうして婚儀を先延ばしにしてるわけ? 戦が終わったらすぐにでも…って聞いてたはずだけど」


それが名無しさんの不安を煽る一因のひとつでもある。凌統の疑問に陸遜は困ったような笑みを浮かべた。


「それは…まあ、私の勝手な都合、ですね」


凌統がこの部屋に現れた時に入れた茶はすでに冷めていた。しかしそれをゆっくりと口に含んでから陸遜は続けた。


「妻にしてしまえば、あんなに嫌がっていた名無しさんを押さえつけてでも自分のものにしてしまいそうで」


「あんなに…って、陸遜さん、あんたまさか」


息をのむ凌統に陸遜は冷たい視線を送る。


「ご心配なく。どこぞのどなたかのように私には相手を縛り付けて昼間から公の場で行為に及ぶ趣味などありませんので」


凌統は思わず吹き出した。若かりし日の彼が人気のない場所で手練れの女官相手にあれやこれやと「精進」していたのをたまたま通りかかった陸遜に目撃されたのは――遠い昔の話だ。


「私が名無しさんを求めたのは婚約してからのことです。それにちゃんと陽も落ちていましたし、何より、私の寝室でしたからね」


咳払いをしながら凌統が「参りました」と苦笑する。名無しさんに乱暴なことをしたのではないかと一瞬でも疑われて気分を害した陸遜もそれには満足げに頷いた。


「男の寝室に入るということがどういうことか、当時の名無しさんにはまだ理解できていなかったのでしょう…男女の駆け引きの延長にある抵抗ではなく、完全に怯えながら拒否されましたよ」


「あらら…」


ご愁傷様、と凌統は心の中で付け加える。確かに名無しさんは同じ年代の娘たちに比べてそういう面の成長が遅れているのかもしれない。凌統はそう思った。名無しさんには愛だの恋だのにばかり現を抜かしている時間はなかった。一人の女であると同時に、一人の武人でもあった。虎の血を継ぐこの国の姫君を敬愛し、心からの忠誠を誓っていた彼女は、幼いころから人一倍鍛錬に鍛錬に明け暮れていたのだ。


そんな名無しさんの名前はいつしか陸遜にまでも届くようになっていった。力任せの大男には任せられない戦場の情報収集は、小柄で機敏な名無しさんには適任だった。陸遜をはじめとする軍師が駐在する本陣と前線を結ぶ大切な仕事を、名無しさんは見事なまでに遂行していった。勿論、秘かに想いを寄せていた陸遜に気に入られようなどという邪な考えで行動していたわけではないのだが、結果としてその期待を裏切らない働きが陸遜の興味を引き付けることになった。


「彼女が非常に…『奥手』だということは付き合いが長くなるうちにわかりましたが、あああまでして拒絶されることになるとは」


それでも名無しさんに対する想いは消えなかった。婚約を取り消すこともなく、傍から見れば相変わらず仲睦まじい二人だった。しかし、陸遜の胸の内には消化できない欲求の炎が未だにゆらゆらと揺らめいている。愛する名無しさんと心身共に一つに交じり合いたい純粋な欲望は日ごと募っていくばかりだ。


そんな状況の中で、名無しさんから完璧に逃げ道を奪ってしまうだろう婚儀を、約束だからと挙げるのも心苦しい。名無しさんの気持ちが自分に追いつくまでどれだけ時間がかかるかもわからない。それまで自分がはたして耐えられるのか、その自信すら持てないでいた。そんな愚かな自分が嫌なのだと続ける陸遜に、凌統は心の中で同意した。愛する女を抱きたいのは当然のこと。男としてこの気持ちは痛いほどよくわかる。


「じゃ、問題は解決したってわけだ。陸遜さんの怪我が全快した日には…名無しさんも大変だな」


独り言のようにつぶやく凌統に陸遜は笑って頷いた。


「まあ、これだけ待ったんですからね…戦の予定も当分ありませんし、名無しさんにはしばらくのあいだ大人しく邸にいてもらいますよ」


どうやら「名無しさんが邸から出られないほどのこと」が起こることは決定しているらしい。


「あのじゃじゃ馬がねぇ…そりゃ見物だな」


…大丈夫ですよ。『女』になった彼女は当分の間私以外の誰にも見せませんからご心配なく――心の中でつぶやく言葉は愛故の独占欲に駆られていて、陸遜は苦笑しながらも今日の執務をどうやって切り上げようかと策を練り始めていた
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