薄桜鬼夢小説

□風邪
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人里離れた山の奥。澄んだ美しい水が流れるこの里に、鬼の一族が棲んでいた。この西の一族を率いるのは由緒正しき血統を組む風間家頭領、風間千景。そして半年ほど前に、彼に見初められこの里に嫁いで来たのは、東の鬼の一族、唯一の生き残りである雪村千鶴だった。


そんな千鶴の部屋から、小さな咳が聞こえ始めたのはつい先日のこと。次第にそれは酷くなり、今は呼吸までもが荒くなっていた。


千鶴は布団の中で身体を丸めて口元を押さえていた。自分が鬼だと自覚する以前からこれといって大きな病にかかった記憶はない。それが鬼の生命力によるものか、はたまた医術に長けていた父によるものかはわからなかったが、それでも、このように何日も床に伏してしまうのは初めてのことだった。


千鶴の咳が一旦治まった昼下がりのこと。彼女の部屋の襖が不意に開いた。風間家頭領である夫を持つ千鶴の部屋に無断で入れる者――それは千景の他にいない。千鶴は戸口に背を向けていた熱い身体に力を入れて寝返りをうった。


「………」


二人の視線が絡み合うが、先に目を逸らしたのは千景の方だった。千鶴の枕元に腰を下ろして、手にしていた盆をその横に置く。彼は毎日のように身体に良さそうなものを見つけては千鶴に有無を言わせずに食べさせていた。


「不知火は当分姿を現すまい。奴も命は惜しいだろう」


穏やかな静寂の中、千景がため息混じりに言った。千鶴はぼんやりしながらも言葉の意味を探りながら眉をひそめる。


この里に千鶴が嫁ぐ前に、千景は二人の鬼と行動を共にして人間が引き起こした大きな戦に関わっていた。そのうちの一人が不知火匡で、陽気な彼は千景の新妻を遊び相手にしたいのか度々この里を訪れていたのだ。


「あの…不知火さんが何か…?」


しゃがれた声で千鶴は問いかける。千景は真っ赤に充血した妻の瞳を冷たく見下ろしながら、気だるそうに口を開いた。


「ふん…鈍感なおまえには自分が人間のように風邪をひいた理由がわからん、か…。どこぞの馬鹿者二人が俺の目を盗んで川で水遊びをしていたのを俺が知らんとでも思っているのか?」


その言葉に千鶴は息をのんだ。そう言われてみれば思い当たる節がある。数日前にふらりと現れた不知火に誘われて千鶴は屋敷を離れ、里の近くにある小川へ向かい――


「き、気付いてたんですか?」


千鶴の問に千景はふんと鼻を鳴らした。


「ずぶ濡れになった着物が乾くまで辺りをうろつき、挙げ句体調を崩すとは…愚かの極みだ」


「………」


自分が体調を崩したきっかけを言い当てられて千鶴は押し黙ってしまった。彼と共に生きると決めたあの日から、この里での生活を後悔したことは一度もない。頭領の妻としてまだまだ誇れたものではないが、それでも彼女なりに毎日を懸命に送っていた。


まるで一国の殿様のような立場の千景が選んだ新妻がどれだけ至らなくとも難癖をつける者など誰一人いないのは事実だ。だが、千鶴はその立場の大きさゆえに焦っていた。何もしないでいることが一番苦手な千鶴にとって、腫れ物でも扱うような皆の行き過ぎた対応は、不知火の誘いに簡単に乗ってしまうほどに千鶴を困惑させていたのだ。


「反論も無しか。まあ、おまえの強情さもその熱と共に消えてしまえば良い」


厳しい口調ではあったが、千景は千鶴の濡れた額にひんやりとした手を伸ばした。汗で張り付いている前髪を優しく避けて、未だに熱いそこに手をのせる。


「……辛い、か?」


夫の冷たい手の心地よさに瞳を閉じていた千鶴が重いまぶたを開けた。一瞬、何のことを言われているのかわからなかった。


「この里での生活は、おまえにとってそれほど苦痛か?」
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