薄桜鬼夢小説

□蜜の味
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小鳥たちの囀りに混じって千鶴の笑い声が聞こえる。鬼の隠れ家は今日も穏やかな――はずだった。


「あ、風間さん!」


ゆったりと廊下を歩きながら姿を現した夫に千鶴は笑いかける。


「天霧さんったら…おかしいんですよ!」


目に涙まで溜めて縁側で笑っている妻の隣にいる天霧に千景は視線を移した。なにやら気まずそうに顔を伏せる天霧の鼻先がほんのりと赤い。


「蜂蜜を取ってきてくださったんです、それで鼻の頭を…」


蜂に刺された、ということか。千景は妻とは反対に、たいして面白くもなさそうに鼻を鳴らす。天霧の身体能力を考えれば、蜂に刺されることなど『有り得ない』のだ。そんな『有り得ない』ことを察しのいい千景が見逃すはずがない。


「天霧…席を外せ」


突然の命令に千鶴は夫を見上げて眉をしかめている。一方、天霧は表情を変えないまま小さく息をついて立ち上がった。


「ま、待ってください、お礼もまだしていないのに!」


「礼など必要ありません。風間の妻ともあろう方が私に気遣うことなどないのです」


「だ、そうだ。強いて言うならば、礼を欠いているのは天霧…貴様の方だ」


「ちょっ…、風間さん!?」


千景のあまりに横暴な態度に千鶴は声を荒げた。


「大変な思いをしてまでこうやって届けてくださったのに…どうしてそんなことを言うんですか!?」


その声に小鳥たちが一斉に飛び立って行く。千景は千鶴の挑発に薄く笑いながら言った。


「こうも鈍感な我が妻に感謝すべきだな。天霧…二度目はないぞ」


「………」


千景の殺気に近い威圧に、天霧は顔を俯かせたまま一礼してその場を去って行く。千鶴は彼から受け取った蜜壷を片手に立ち上がった。


「鈍感なのは風間さんの方です! 天霧さんはただ親切で――」


「…親切、か。人間共がさぞ好みそうな言い回しだな」


「か、からかわないでください! 私は真剣に話をしているんです!」


「ならば俺も『真剣』とやらに話すをするが」


そう言って千景は千鶴の細い腰に腕を回し、急に抱き寄せた。


「っ…、離してください!」


「西の鬼を統べる風間家の頭領たる俺の妻に、主である俺を通さず会える男鬼がいると思うか? その色恋に鈍い頭でよくよく考えてみるがいい」


「なんで、そんな…」


千鶴の腰に回していた千景の腕に、更に力が入る。


「仮にもこの俺と戦場を渡り歩いた鬼が蜂に刺されるだと? 冗談でも笑えんと言うのに、おまえはずいぶんと呑気なものだな」


千鶴は急に押し黙って、手にしている蜜壷を見下ろした。


「確かにおまえと天霧が互いに顔を見知っているのは事実だ。だが、婚礼の儀を挙げた今、おまえには俺以外の男に俺の許可も無く会う権利などない。更に言うならば、その掟を天霧も十分に理解しているのだが――」


「………」


「――これで『笑えん』理由がわかったか?」


千鶴は押し黙ったまま唇を噛み締めた。鬼の里に来てからというもの、彼らがどれだけ「規律」を重んじているかを改めて知った。一見厳しそうに見えるその細かな決まり事も、すべては筋が通っており、それは掟として皆の生活に根付いている。


既に夫のいる女鬼が一人きりで夫以外の男に会わないのも、数少ない女鬼を求めて鬼同士が争い合うことのないようにするためだ。千鶴は度々掟について耳にはしていたが、まさか自分がその規律を侵しているとは気付きもしなかった。それに、彼の気持ちにも――


「天霧さんは…悪くないんです。私が…甘いものが好きだなんて言ったから…だから天霧さんは……」


「止めておけ」


不意に千景が千鶴の言葉を遮る。


「おまえが奴を庇えば庇うほど、事態は悪くなる一方だ」


「どうして……?」


千景は妻を見下ろし、その顎に手を添えた。


「おまえがどれだけ奴を庇おうと奴の想いは永遠に報われん。そして……俺の怒りは増すだけだ」


「か、風間、さん……」


「その呼び名を改めろ、と言った筈だが?」


「で、でも……」


「先程までの勢いはどうした? 漸く『鈍感』なのは誰だかわかったか?」


千鶴を追い込むように千景は彼女の顔を覗き込む。その表情は、妻への愛が故の独占欲で満ち溢れていた。


「おまえのその瞳に映るのは、この俺だけでいい」


千景が唇を落とすと、千鶴はその甘い誘惑に身体の芯を震わせた。彼と床を共にするようになってからというもの、千鶴の眠っていた感覚は彼の手解きによって目覚め始めている。この甘い唇は、これから始まるであろう蜜事を予感させていた。


「甘いものが好きなのだろう? …ならばこの俺がたっぷりとくれてやる」


「でも…」


「たまには素直に頷いたらどうだ?」


「………」


耳元でそう囁かれた千鶴は、おずおずと頷く。千景はどこか満足げに薄く微笑むと、妻をいとも簡単に抱き上げて、人気のない廊下の奥へと進んで行った。















*END*

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