薄桜鬼夢小説

□風の引力
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清らかな小川のせせらぎが疲れ果てた千鶴の耳を癒やす。ざわめく木々が千鶴の暗く影の差す瞳を癒やす。数年ぶりに訪れた故郷は、迷い子のように突然現れた千鶴を温かく迎え入れた。以前と違うのは、僅かな焚き火の残り炭があるくらいだ。


「……迷い込んでしまった人がいたのかな」


慣れた独り言を呟き、ここで暖をとったのであろう見知らぬ訪問者の無事をぼんやりと願いながら千鶴は手を翳して太陽を見上げた。夏の暑さを和らげる木々から垣間見えるその強い日差しに思わず目がくらむ。真っ白になった目蓋の裏には、いつの日かの彼の姿が映し出された。


「……」


こくりと喉を鳴らして涙を飲み込むと、千鶴は朽ち果てた屋敷の面影へと足を向けた。生い茂った草を掻き分けて進みながら、以前ここに来た時には自分の先を歩く彼がこうやって道を作ってくれたのかと、ぼんやりと思った。自分で選び、自分で切り開いた道を歩いてきたつもりだった。少し前まではそれを疑いもしなかった。だが今になって千鶴は痛感していた。今まで歩いてきた道は全て、誰かが自分のために用意したものだったのだ。しかも、その道端には必ず手を引いてくれる誰かが待ってくれていた。


産まれてから江戸に来るまでの間の記憶は無い。今のように本能で懐かしいと感じることはあるが、はっきりと覚えているわけではなかった。当時、鬼の血を根絶やしにしようと攻め込んできた人間の手によってここにひっそりと住んでいた一族は滅ぼされた。赤子も同然だった千鶴は、分家の鬼に守られ、江戸へと逃げ延びたのだ。彼女の父と母、それに同胞達が命を懸けて作った道をくぐり抜けて。


そして数年前までは、父親だと思っていたその鬼――雪村綱道が作り上げた道を歩いていた。今となっては稀少な純血の女鬼として生きる千鶴を使い、この国もろとも手中に収めようとする彼の歪んだ欲望が作り上げた道を、疑いもせずに歩いていた。京で出会った、新選組の屈強な男達に手を引かれながら。


そして、彼らとはぐれた千鶴は再び運命的な出会いを果たした。人間同士の争いに介入することを拒み続けて散っていった東の鬼の一族である雪村家とは反対に、人間に匿われながらも必死に生き延びてきた西の鬼の一族である風間家、その頭首である若き男鬼、風間千景。


彼は自分の一族の子孫繁栄を念頭に置き、千鶴に接触していた。いや、本人の当時の言葉を引用するならば、千鶴を保護していた新選組という「玩具」で遊ぶ口実だったのかもしれない。同胞同士で殺し合える有る意味稀有な存在である人間という生き物にほとほと嫌気がさしていた千景は、過去に自分たちを匿った薩摩藩に恩を返すと、その後は彼らのくだらない国取合戦から手を引いていた。そして千鶴は敵視していた千景と再び歩き出す。自分を守ってくれた仲間を追うために、千景と、共にいた天霧九寿という二人の鬼に導かれて――


千鶴は小川に向かって歩き出した。よくよく考えてみれば喉がからからだった。京で懐かしい旧友から渡された水筒は空になっていたし、何よりも汗だくだ。鬼の生命力は人間のそれとは比べものにならないくらいに強いとはいえ、久しぶりの長旅で彼女はくたくただった。獣の気配は勿論、人間のそれも感じない。ここが鬼の住処だったことが関係しているのだろうか。どちらにせよ、千鶴は服を脱いでそのせせらぎに身を投じた。


ひんやりとした穏やかな水の流れが心地良い。千鶴は「気持ちいい」といつしか微笑んで汗を流していた。その薄い笑みとは裏腹に心は空虚だった。それでも千鶴は今、ようやく自分の力で切り開いた道を、自分の足であるいている実感を噛み締めていた。不意に涙がぽろりと零れる。寂しいからじゃない、嬉しいからだ…そう無理やり自分自身に言い聞かせる。


自分の道を自分で歩くのは、その責任から生まれる孤独との戦いなのかもしれない。いつも難しい顔をしていた彼も、人知れずそうやって戦っていたのだろう。出来損ないの妻に愚痴の一つもこぼさずに。


千鶴はもう二度と会うことのない夫――風間千景を想って、初めて、声を上げて泣いていた。
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