薄桜鬼夢小説

□信愛なる君へ
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「千草ー、あまり遠くに行っては駄目よー!」


「お兄ちゃんがいるから、だいじょうぶ〜! あ、待ってよ〜!!」


その日は雲一つ無い晴天に恵まれた。深い谷を越え、高い山を登り、そしてこの開けた草原へと彼らはやってきた。千鶴は子ども達のはしゃぐ姿を眩しそうに見つめて、風呂敷から今日の為に用意した昼飯を広げた。隣にいた夫、風間千景は敷物の上で胡座をかいたまま酒瓶に手を伸ばす。


「お酒はまだ駄目です!」


妻にぴしゃりと言われ、千景は気怠そうに笑った。


「…何の為に屋敷から離れたと思っている?」


「でも」


「案ずるな。子供らの相手が出来ぬ程に飲む訳ではあるまい」


おまえも少し肩の力を抜いたらどうだ…そう言って千景は乾いた喉を飲み慣れた焼酎で潤した。


西の鬼の一族を統べる、名門風間家。その頭領たる風間千景と、その妻で、東の鬼の一族、雪村家の唯一の生き残りである千鶴。彼らが祝言を挙げたのは今から八年前のことだった。二人は大きな戦の最中に出会い、そして当時は敵対していた。なぜなら、人間という愚かな生き物を徹底して見下してきた若き鬼の頭領と、自身が鬼であることも知らずに人として生きてきた若き娘は、互いに相反する勢力にその身を置いていたからだ。


千景は当初、千鶴の血に惚れていた。絶滅したとされている東の雪村を名乗る千鶴には、鬼としてはこれ以上にない純血が流れている。自身もそうである千景にとって、千鶴は恰好の嫁――言い換えるならば、強い子孫を残す為には最適な道具にさえ思えた。そして彼は次に千鶴を取り囲む環境に興味を抱いた。「人斬り集団」とも揶揄される新選組がそれで、彼らは千景が身を置く薩摩藩の敵となり、双方は度々顔を合わせることになった。


後に事実は明るみに出るが、千鶴の育ての親である雪村綱道が作り出した「変若水」に手を染め、まがい物の鬼となり果てても傾き始めた幕府に身を捧げた彼ら新選組に、千景は興味を示したのだ。所詮人間ながらも遊び相手としては十分と見た千景は、幾度となく彼らと刃を交えた。そして、彼らに守られながらも懸命に生きる千鶴に、次第に心を奪われた。


そして、海を越えた最果ての地で、一つの大きな時代が終焉を迎えることとなる。一人、また一人と数を減らしていく新選組を最後まで導いた男、土方歳三の死を持って、彼らの戦いは幕を閉じた。


薄桜鬼――千景がそう名付けた男は、彼の刃に散っていったのだ。桜の花びらと共に降る、愛した娘の涙に看取られながら、彼は灰と化して、風に消えた。


「…あら、お兄ちゃんはどうしたの?」


こちらに駆けてきた娘を抱き寄せながら、千鶴は彼女の涙の跡を拭う。


「知らない、だって行っちゃったんだもん」


千草は膨れながらそう言った。


「…おまえが千尋の言うことを聞かなかったからではないのか?」


父にそう言われて、千草は唇を尖らせた。


「違うもん!」


お父様なんて嫌い! と千草が千鶴の胸に顔を埋める。隠れ里の最奥に建てられた屋敷に居る時は、千景は子供達の父親ではなく、何百の鬼を統べる頭領だった。物心がついてきた五つの娘にしてみれば、いつも厳しい表情を纏っている父親より、優しい母親の方により懐くのも当然かもしれない。


久々に家族だけの時間を、とここまで足を運んだのに、これでは意味が無い。千景と千鶴は苦笑しながら顔を合わせた。


「千尋を探してくるとするか」


娘の頭を撫で、妻にそう言うと千景はおもむろに立ち上がる。千鶴は軽く頷いて、いまだにふてくされている娘に目を向けた。


何よりも時間が必要なのは「父と娘」の方ではない。風間家の跡を継ぐであろう息子の方が、最近になって父親と距離を置きはじめたのは母親である千鶴の目には火を見るより明らかだった。


自身がそうだったように、千景は息子を甘やかしたりしなかった。また、周囲の鬼にもそれを徹底させていた。七つになり、自分を取り巻く環境におぼろげながらも目を向けるようになった千尋にとって、千景は父親ではなく、威厳に満ち溢れた指導者に近いものがあることだろう。


そして夫もまた息子の苦悩に気付いている――千鶴は娘を胸に抱いたまま、小さくなっていく千景の広い背中を見つめていた。


全ての困難をたった一人で背負い、それでも前を向いて毅然と歩いていく凛々しい夫の姿に、千鶴は遠いあの日と同じように僅かな希望を抱いていた。
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