薄桜鬼夢小説

□夢の跡
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雪村君、トシを頼んだぞ――


憑き物が取れたようなその穏やかな笑みが千鶴の記憶の片隅に蘇った。あの辛い決断を後悔していないと言えば嘘になる。しかし、再びあの瞬間に戻ることができたとしても、きっと同じ選択肢を選ぶのだろう。彼の――新選組局長、近藤勇の最期の願いを聞き入れるという道を。


千鶴は霧雨降る中、夫である歳三の背中越しにある供養塔をただまっすぐ見つめていた。寒さは感じない。寒暖の激しい蝦夷での生活に慣れてしまえば、今では『東京』と呼ばれているこの懐かしい江戸の地は天国のようなものだ。なので、夫の肩が震えている理由にはあえて触れずに、ただ、黙って前を向いていた。


「ようよく、だな」


完成した供養塔の前で、かつて永倉新八と呼ばれていた体格の良い男が鼻を啜る。隣にいた松本良順は、感慨深げに頷いた。


「ああ、あんたらのおかげだ」


そう言って松本は、新八と歳三の肩に大きな手を乗せた。


慶応四年、四月二十五日。新選組副長、土方歳三の尽力もむなしく、近藤勇は板橋宿で最期の時を迎える事となる。斬首の後、その首だけが京へと運ばれて、三条河原にてさらし首となり、残った遺体はここに埋められていた。


戦乱の時代を生き残った隊士の中には、当時の新政府軍によって墓を建てる事さえ禁止されたまま眠りにつく局長の亡骸を奪い返そうとこの地を荒らした者もいる。しかし、血気盛んな新選組ならではの行動は、時代の流れから既に取り残されていた。腕っぷしで物事を解決する時代はもう終わりを迎えようとしている。あの大きな戦を経験して生き残った彼らだからこそ、その『常識』が変わっていくのを誰よりも痛感していた。だからといって、敬愛する局長の受けている扱いを、歳三がただ手をこまねいて傍観している訳ではなかった。


箱館戦争で死んだとされている歳三が公に動くことはできなかったが、彼と松前で再会を果たしていた新八が代わりに動き出していた。歳三と再び出会わなくとも新八は何らかの行動を起こしていただろう。新選組を抜けたとはいえ、彼にも思うところはある。近藤の開く道場に世話になっていたころから、数えきれないほどの恩があるのだ。それを返す機会を失ってしまったと嘆いていた自分にとって、近藤の――そして命を落とした新選組一同の――墓を建てるためなら誰にだって頭を下げる気持ちでいた。


そんな新八に力を貸したのが、松本良順だった。かの家茂公の信頼も厚い彼は、会津戦争後に投獄されていたが、今は恩赦により自由の身となっていた。自由とはいえ、当時の新政府軍からも一目置かれていたであろう医療に関する素晴らしい技術と経験を持つ彼は、大日本帝国軍と名を変えた政府軍の陸軍軍医として勤めていた。新選組と共に激動の時代を生き抜き、歳三も新八も、同じく千鶴も信頼する人物であり、何より、彼らの大切な弟分――沖田総司の最期を看取った人物でもあった。


「やはり彼の名も刻んでやればよかったか」


黙ったまま佇む歳三と新八から離れ、供養塔の横に回った松本は、そこに刻まれた数々の名を見つめながらつぶやいた。


新八と再会し、この供養塔建立の話を持ちかけられた松本にとって一番の喜びは、あの『変若水』に手を出し箱館戦争で非業の死を遂げたとされていた土方歳三が生きていたということだった。それはまさに奇跡としか言いようがなく、秘密裏に歳三と再会できたあの日の喜びを彼は一生忘れないだろう。


だが、それと同時に一番の苦しみとなったのは、恩師である近藤勇の死を知らないまま旅立った沖田総司の最期を知らせなければならない事だった。松本との再会を喜ぶ歳三とは違い、千鶴がその時真っ先に聞いたのは、結核という重い病で前線を離脱した総司の容態についてだった。彼が重い口を開いた後、再会の喜びはいつしか消え、その若すぎる死に皆一様に涙を流した。建立に尽力を注ぐ供養塔には近藤の名前だけではなく、命を落とした隊士たちの名も連ねることになっていたが、そこに彼の名を刻まねばならないという現実を受け入れるのにはかなりの時間を要したはずだった。


「…いや、あいつはそんなことを望んじゃいねえよ」


歳三は、総司の名が刻まれていない供養塔を見つめていた松本に静かにそう言った。


「ようやく肩の荷が下りた近藤さんを、わざわざあの世で泣かすような真似を…あいつは望んじゃいねえだろうからな」


自分の死よりも息子のように可愛がっていた総司の死に胸を痛めるに決まっている。近藤勇とはそういう人間なのだ。首を切られる最期の瞬間でさえ総司がどこかで生きているという希望をあの人は捨てなかったはずだ。ならば総司の死を今更伝える必要はない。そして誰より、総司もそう望んでいるだろう――


歳三はそう確信していた。二人を知り尽くしているからこそのその決断に、反対を唱える者は誰一人としていなかった。


明治九年、東京。


新選組局長、近藤勇とその他隊士たちの供養塔はようやく完成した。霧雨降る中、男たちはそれぞれの気持ちにようやく折り合いをつけることになるだろう。千鶴は一つの心残りを胸に、その石碑を――そして激動の時代を生き抜いた男たちの背中をただただ見守っていた。
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