無双夢小説

□夢から覚めたら
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「あんな男に婚儀を申し込まれてるとはねぇ」


敵意のあるその言葉に名無しさんははっと振り返った。彼女を蔑むかのように顔をしかめた男、凌統はうろたえる名無しさんに構わず言葉を続ける。


「あの男がうちの財産目当てだってあんたが気付いてることを願いたいもんだ」


心底呆れたような笑みを浮かべた凌統に、名無しさんの心の火がついた。名無しさんだってそんな事くらいとうに気付いている。ただ、毎度毎度の彼の馬鹿にしたような言い草に対抗してやりたくなったのだ。


「あの人が私を愛している、そうは思えないの?」


内心の動揺を隠して、自信あり気に名無しさんは言った。凌統はそんな名無しさんの頭からつま先をじっくりと眺めた後、苛立ちを含んで苦く笑いながら言う。


「…ますます、あいつが財産目当てなのははっきりしたよ」


自分の容姿までも馬鹿にするような言葉に、名無しさんの怒りの炎はあっけなく消え、力無く首を振るだけだった。


凌統の父、凌操に名無しさんが拾われたのは、彼女が七つ、凌統が八つの時だった。戦で親を亡くし途方に暮れていた名無しさんは、その日のことを今でも鮮明に覚えている。名無しさんの運命が変わったその日から、凌操の一人息子である凌統が彼女に心を開いたことは一度もない。父の前でこそもめ事は起こさなかったが、二人きりになるとここぞとばかりに名無しさんに敵意を向けた。今日もそんな今までと同じように、彼の辛辣な言葉が十四になったばかりの名無しさんの胸に突き刺さっていた。


凌統が剣を握っていた名無しさんを熟視しているのにも構わず、名無しさんは鍛錬場に戻ろうと彼に背を向けた。彼にこれ以上傷付けられるのは耐えられない。ただでさえ、腹には別の思惑を含んでいる男からの求婚に対する返事を、なんとかうやむやにしたばかりなのだから。


きびすを返した名無しさんの腕を凌統が掴むと、名無しさんは自分の腕がかっと熱くなるのを感じて振り返った。吐息もかかるほどすぐそばに凌統がいる。思いもよらない彼の行動に、名無しさんは必死に抑えてきた恋心がその顔にはっきりと浮かんでしまったことに気付かないまま凌統を見上げた。


「あいつにはさっさと断りの連絡をいれるんだね」


「何で…公績にそんなことを言われなきゃ――」


突然、名無しさんは唇を塞がれて目を閉じるのも忘れたまま胸を高鳴らせた。初めての口付けに最初は抵抗を試みたが、次第に深くなるそれは名無しさんの理性をも奪っていた。おとなしくなった名無しさんの腕から手を離した凌統は、両手で名無しさんの頬を包み込んで、必死に応えようとする名無しさんの甘い唇を味わった。そして、ゆっくりと離された彼の唇を惜しむかのように名無しさんが瞼を開いて熱い視線を送ると、彼は名無しさんの耳元に囁いた。


「他の男を愛している女と結婚させるのはさすがにあいつにも申し訳ないからね…、だからさっさと断れって言ってんの」


甘い台詞を一瞬でも期待してしまった自分に嫌気が差し、耳元で囁かれた言葉の意味をじんわりと理解するうち名無しさんの血の気が引いていった。迂闊にも今までひた隠しにしてきた凌統への恋心に気付かれただけではない。それを逆手に取られているとは知らずに口付けにまで答えてしまったのだ。


彼は、名無しさんに対する好意などかけらも持ち合わせていないと知っていたはずなのに。意地悪く口角を上げている凌統に、悔しさと恥ずかしさでいっぱいになった名無しさんは、袖で腫れた唇を力強く拭い、そのまま彼の元を去った。












*****












凌操は、扉が大きな音をたてて閉まるのを聞いて、読みかけの書物から視線を外した。この邸に出入りする者は女官を除けば三人しかいないが、凌操以外の二人のどちらかがそんなに荒々しい行動をとるとは珍しい。彼は、手にしていた書物を卓の上に伏せて足音が響く方へと向かった。


水瓶から桶に水を掬い、衣が濡れるのも構わずに名無しさんが顔を洗っている。凌操は台所の戸口から静かにそれを眺めていた。気が済むまで冷水で顔を洗った名無しさんが気配に気付き振り返ると、凌統のそれを思い出させる苦笑いを浮かべた凌操と目が合った。


「何かあったのか?」


十数年後の凌統をいとも簡単に想像させる凌操の優しい問いかけに名無しさんの胸が痛む。しかし名無しさんは気丈に振る舞った。


「何でもないの…、父上こそどうしたの?」


「いや、小腹が減ってな」


お前が気になって、と言わなかった凌操は、名無しさんの唇が赤く腫れ上がっていることに気付かないふりをして、腹に手をやった。
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