無双夢小説
□怪我の巧妙
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「あ、ちょっと…いいかな」
普段から活発かつ女っ気のない同僚から控えめな問いかけを受けた凌統は、わざわざ人気のないこの小道で自分を待ち構えるように腰を下ろしていた彼女を見つけると、とっさに辺りを見回しはじめた。
「な、なにしてるの」
「いや…名無しさんと二人きりなんて、あの人に見られたら火炙り確定でしょ」
俺、まだ死にたくないし、と付け加えた凌統に名無しさんは困ったように小さく笑った。
「ま、冗談だけどさ…とりあえず…場所変えますか」
人気がないとはいえ道は道。人が通るためにあるものだ。冗談とは言ったものの、凌統の頭の中には自分をどう始末しようかと冷たく微笑む天才軍師の黒笑が浮かび上がり、そそくさと名無しさんを促した。
「で? 俺を待ち伏せするなんて、なんかあった?」
小高い丘の上で凌統が伸びをしながら問いかける。隣で膝を抱えたまま俯いていた名無しさんは、言葉を選んでいるのか口をぱくぱくさせてからようやくつぶやいた。
「陸遜さまのこと…なんだけど」
それはそうだろう。長年陸遜だけに想いを寄せてきた名無しさんが自分を呼び出す理由は他には思いつかない。二人が恋仲になってから一年ほどたっただろうか…男勝りだった名無しさんが上司とはいえ自分の親しい友と付き合い初めてからはずいぶんとしおらしくなったものだと改めて思った。
「…で?」
「あの、さ」
相当言いづらいことなのだろうか? 二人を近くで見ている人間からしてみれば、相思相愛なのはもちろんのこと、婚約も済ませて一つ屋根の下で暮らす彼らに不穏な気配など感じたこともないのだが。
続きを催促することもなく凌統が腕を枕にして仰向けに寝転がっている隣で、名無しさんはごくりと喉をならし口を開いた。
「この前の戦で…陸遜さま、怪我したじゃない?」
「ああ…そーね。最近忙しくて会ってないけど、どう? 良くなってきてんの?」
当たり障りのない返事だと凌統は思っていた。というより、特に何も意識はしていなかったのだが…名無しさんの顔はみるみるうちに雲行きが怪しくなっていく。
「え、なに…どっか悪いの?」
身体を起こして凌統は名無しさんの顔を覗き込む。名無しさんは真っ赤な顔を横に振りながら唇を噛み締めていた。
「ち、違うの。怪我はよくなってきてると思う…よくわかんないんだけど」
「…は? わかんない、ってあんた…一緒に住んでて手当てしてあげてないの?」
小馬鹿にしたような問いに名無しさんは顔を勢いよく上げて反論した。
「違うっ! 私はしたいし、しようと思ってたよ? だけど陸遜さまが」
「…陸遜さまが、なに?」
「…せて…くれない」
「なんだって?」
くぐもった名無しさんの声は凌統の耳には届かない。腹から下一面、どす黒い血にまみれたあの時の陸遜の痛々しい姿が脳裏に蘇った凌統に「はっきり言えよ」とせかされた名無しさんは、とうとう声を振り絞って怒鳴るように言った。
「だ、だからっ! 見せてくれないの!!」
小鳥たちが飛び立つ羽音が一斉に鳴り響いた。凌統はしばらくぽかんとしてから、確認するように名無しさんに問いかけた。
「見せてくれないって…陸遜さんがあんたに傷を見せない、ってコト?」
膝を抱えたままの名無しさんが縦に首を振る。風呂上がりかのように顔を真っ赤にして押し黙っている名無しさんに、凌統はふと沸き起こった疑問を投げかけた。
「あんたら、もしかして…まだ?」
こんなことを知られたくはなかったのに。そう言わんばかりに名無しさんは渋々と頷いた。
「り、陸遜さまが、寝室に、入れてくれない」
今にも泣き出しそうな声で名無しさんは続けた。
「あの戦で勝ったら、式を挙げるって言ってたのに…怪我も見せてくれないし、だから…その…怪我の詳しい状況も…わからないの」
ああ、そういうことか。凌統はとりあえず陸遜の命には危険がないことを察して胸をなで下ろした。重傷を負った陸遜は、すぐさま戦地でできる限りの処置を施された。命の危険は回避できたが、兵の不安を煽らないためにその内容は公にされていなかった。無論、前線で活躍していた名無しさんにもこの情報は伝えられなかったのだが、戦の終結と同時に同じ邸に戻る名無しさんが彼の違和感に気付くのも時間の問題だった。陸遜は心配そうな名無しさんに「大丈夫ですよ」「そんなに気にしないで」を繰り返すばかりだった。二人の挙式の話など最初からなかったかのように寝室は別のままで、彼の寝室に出入りできるのは陸遜本人と、彼が受けたであろう傷を手当てする者だけだ。よって、名無しさんがわかっていることと言えば、彼が『腹から下のどこか』に傷を負っているということだけだった。
「…で、名無しさんは俺に何を聞きたいわけ?」
「い、言わなくてもわかってるくせに!」
「いや、ちゃんと聞かれないとわかんないし」
からかいがいのある同僚に苦笑した確信犯は、もじもじとしている名無しさんの次の言葉を待ちながら再び草の上に寝転がった。