無双夢小説

□玉響
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夏候惇は目の前にいる女に一向に興味がわかない自分自身に苦笑いを漏らしていた。向かいに座っていた女はそんな見合い相手に一瞬眉をひそませて問いかける。


「…どうかなさいました?」


「いや、失礼した」


たとえ興味の対象にはならずとも相手は隣国の姫君だ。夏候惇は口元を押さえて、こほんと咳払いをした。真面目な表情を取り繕ったのだが、その顔付きは隻眼の男など見慣れない邸育ちの娘には険しく見えたのだろう。僅かに強張った顔には不安の色が見え隠れしている。もちろん、それにいい気はしなかったが、向こうから断ってくれれば手間も省けるというものだ。夏候惇はそう思いながら憂鬱な時間をなんとかやり過ごしていた。


曹魏の国力も蓄えられた今、延ばし延ばしにしてきた話がとうとう夏候惇にも降りかかってきた。そろそろ適当な妻を娶り婚儀を挙げろ…そう曹操に提案されたのである。この場合の「適当」とは「どうでもいい」という意味ではない。君主曹操の片腕として名を上げる武人に適した女性、ということだ。


とりあえずは手始めに顔合わせだけでもと、この席を設けてくれた曹操には申し訳ないのだが、どうしても気乗りしないものは仕方ない。例えこちらにその気があったにせよ、内心に蔑みを孕んで夫を見る女など娶ったところで抱く気にもならないが――


長い時間を耐え抜いた夏候惇は憂鬱そうに眼帯の紐を締め直しながら医務室へと向かって行った。


「そんなに怖いですかね〜?」


医務室にいた駆け出しの医師、名無しさんは、夏候惇が零した先の見合いでの出来事を聞きながら、以前の上官である彼の眼帯を外してのんきにつぶやく。


「まあ、この傷を見慣れているおまえはそう思わんのかもしれんがな」


「いや〜、そうかもしれませんけど、それでも目の前で怯えるほど恐ろしいって訳じゃないと思いますよ」


消毒の為の薬草を彼の眼球があったであろう患部に塗っていく。駆け出しの割りには手慣れた手付きだが、それもそのはず、名無しさんは見習い軍医になる以前から簡単な治療には携わっていたのだ。彼女の故郷は国と国との境界に近く、幼いころから戦を嫌でも目の当たりにしなければならなかった。目の前で傷ついた者を助けていたのは、何より、自分たち家族がそうなったときに生き残るための学習の場でもあったからだ。


「おまえは戦の経験があるからな、まあ、肝が据わっていて当然か」


一時は彼の配下としては珍しい女兵として所属していた名無しさんの姿を思い出しながら夏候惇は微笑んだ。


「でも結局は負傷者の手当てばっかりで…あんまりお役には立ちませんでしたけど」


「おまえがいたから生き延びている者もいるんだ、そう言うな」


俺も含めて、な――夏候惇の言葉に名無しさんは微笑み返す。彼が鋭い矢でその目を貫かれた時、機転を利かせた彼女の応急手当てが無ければ傷が膿んで脳にまで達していたかもしれないのは紛れもない事実だった。


「剣に振り回されていた時よりはらしく見えるぞ」


「…ははは、ですよねぇ」


非力な自分を棚に上げて戦場に出たいなどと言い張っていた無鉄砲な過去の自分を思い出し、名無しさんは頬を赤らめた。誰がどう見ても名無しさんに剣は不似合いだった。今となっては自分でもそう思うが、貧しいながらもなんとか家族と暮らしていたあの日々を戦火に奪われた彼女の怒りは計り知れなかった。


涙を流して男に頼れば生き延びることは容易かったかもしれない。ひときわ美人というわけではないが、名無しさんには親しみやすい愛嬌がある。しかし彼女はそんな生き方を選ばなかった。燃え尽きた家の中で、もはや人だったことが疑わしくなるほどの状態になった両親を葬った後、名無しさんは性別を偽り、泥だらけの顔のまま義勇兵の一員として戦場に駆け出していたのだ。


「目の前の坊主が女だったとはな…俺もあの時はさすがに驚いたが」


初対面の時を振り返り夏候惇はつぶやく。非力な名無しさんは、敵を叩く代わりに、幼いころから培った治療の知識を生かし、負傷した兵を次々と手当てしていったのだ。


「やはりおまえをこの道に進ませて正解だったな」


名無しさんの柔らかい指先を感じながら夏候惇は苦笑した。


「そうですね…本当に感謝してます」


己の小さな幸福を奪った代償は戦場に赴いて憎き敵を殺めることでしか得られないと頑なに考えていた名無しさんにとって、上官からの「医務室での待機命令」はまさしく転機だった。自分を生かせる場所があるから、生きる価値も見つかるのだ、死に方ではなく生き方を考えろ――そう夏候惇に諭されなければ、今頃はどこかの戦地で凶刃に倒れていたことだろう。


「はい…終わりました〜」


軽い口調どおりの柔らかい微笑みは、血塗れた戦を経験したことさえ嘘のように穏やかだった。そんな彼女の笑みの下には、死を覚悟するほど苦しい過去があったことなど、知らない人間の方が多いだろう。
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