無双夢小説
□笑門来福
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殿が笑っている――
大量の書類を手に抱えながら廊下を歩いていた島左近は、目の前の光景をいささか信じられずにぴたりと足を止めた。
左近は書類をなんとか片手に持ち直して、空いた方の手でその目を擦ってみた。
…どうやら夢ではないようだ。
廊下を曲がった左近が目にした光景。それは左近の主であり、今や天下人となった豊臣秀吉の右腕とも言われている石田三成が、自分の寝室の前で腹を抱えながらも声を小さくして笑っている姿であった。
それは左近が三成に三顧の礼でもって迎えられてから初めてお目にかかったある意味貴重な光景だ。
未だ若くして頭角を現した三成が、人の目につくところで自分自身の喜怒哀楽を見せることは少ない。常に冷静沈着で気難しい印象を与えていた。
実際にはそれほどまでに付き合い辛い人ではないと左近は思っていた。秀吉に忠誠を誓いながら、民を思い、国を思い、善政を心がける三成が「悪い人間」であるはずがない。自分の気持ちを後回しにしてしまう傾向が強いのは、若くして責任とそれに対する重圧を肩に乗せている三成の生きてきた道を振り返れば仕方のないことだ。
そんな主が目に涙を溜めて笑っているのだ、左近はただ呆然と立ち尽くしていた。
「…左近、か」
息を切らしながら涙を拭った三成は左近が呆然と立ち尽くしているのに気が付いて声をかけた。
「殿…何かあったんですか?」
左近が口を開くと三成は寝室の中を見てみろと言わんばかりに愛用の扇で指した。
左近は書類を足元に置いて、何が殿をここまで笑わせたのかと恐る恐る寝室内を覗く。
「なっ…」
中を見た左近はとんでもない光景を目の当たりにして言葉を失った。その左近の驚きを横目で見た三成はまた腹の虫が騒ぎ出し肩を震わせ笑いをこらえる。
三成と左近が目にしたもの。それは器量がいいと城で評判の女官である名無しさんの姿だった。古くから三成に仕える女官長あたりに殿の寝室の掃除を任されたのであろう。その場所を一人で任されること自体、信頼されている証とも言える。
左近はともかく、女官などにはたいして興味もない三成でさえ名無しさんの存在は知っていた。若くして女官長の次に名前が挙げられる名無しさんには何か思うところがあったのかもしれない。
しかし、だ。今、名無しさんは普段のように凛とした姿で三成の寝室を掃除しているわけではない。
その姿形から三成の布団を干していたのだろう。窓際でふかふかになったその掛け布団にくるまって壁にもたれながら爆睡していたのだ。おまけに名無しさんの口元には涎の跡が見える。
左近の中にあった名無しさんという器量のいい女官の姿が音をたてて崩れ落ちていった。
「…これはさすがに…まずいんじゃないですかね?」
独り言のように呟いた左近が名無しさんを起こそうと寝室に足を踏み入れようとした時、隣にいた三成が突然それを片手で制した。
「起こしてくれるなよ…くっ…、駄目だ、腹が痛い…」
またもや肩を震わせながら三成が言った。主に止められた左近は納得がいかないような表情を一瞬浮かべたが、結局三成につられて静かに笑い出していた。
ま…、殿がそう言うなら…今回は見逃しますか――
そして襖をそっと閉めて、他の女官に見つかる前に目覚めることを祈りながら、三成と共にその場を後にした。