無双夢小説
□未来は君の手の中に
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名無しさんは怒りに任せて廊下を歩いていた。通り過ぎる誰もがその姿を見るなり頭を下げて俯いてしまう。
いくら怒りをあらわにしていても、母の血をしっかりと受け継いだ名無しさんの美しさは見惚れてしまうほどだ。しかし彼女には偉大な父の血も流れている。小覇王の異名をとった亡き孫策の眼差しと今の名無しさんのそれは瓜二つだった。
「叔父様っ!!」
勢い良く開いた扉の向こうには、孫呉の君主である孫権と、彼を支える周瑜が揃っていた。近くには孫権の妹であり名無しさんの叔母でもある尚香が立っている。
「名無しさん…、一体どうしたと――」
亡き孫策とは義兄弟の間柄である周瑜は、我が子のように可愛がる名無しさんの怒りにいち早く気付いて声を上げた。しかし名無しさんはその呼びかけにも答えないまま、真っ直ぐに孫権の前へと向かった。
「叔父様、私が嫌いなの?!」
突然、孫権に食ってかかる名無しさんを目の前にして三人は互いに視線を通わせ首を傾げる。名無しさんをここまで怒らせる心当たりなど誰にもないようだ。
「名無しさん、何故そのようなことを?」
苦笑する孫権に名無しさんは拳を握りしめながら続けた。
「いいから答えて!」
「…私が可愛い姪を嫌う理由などどこにあるというのだ」
「なら、なんであんなことをっ」
あんなこと、とは何のことなのか。黙ったまま名無しさんの様子をうかがっていた孫権に痺れを切らした名無しさんがとうとう声を張り上げた。
「何で寄りによって伯言なんかと婚儀を挙げなきゃいけないの!」
相当興奮しているのだろう。名無しさんの瞳からは涙が零れ落ちた。
「…なんだ、誰から聞いたんだ?」
これから名無しさんに伝えようとしていたことが既に伝わってしまったようだ。特に驚いた様子も見せないで孫権が問うと、名無しさんは唸るように呟いた。
「叔母様よ!」
孫権と周瑜は一斉に尚香の方を向いた。慌てて、私じゃないわと彼女が言う。すると今度は、尚香と孫権が同時に周瑜に目をやった。彼の妻である小喬は名無しさんの母、大喬の妹だ。尚香以外に残された名無しさんの叔母は小喬の他にはいない。
周瑜は頭を抑えながら力無く首を振った。数週間前に孫権の考えを初めて耳にして、うかつにも彼女に話してしまった自分が悪いのだ、と。
「私、絶対嫌だから」
「何故だ? 陸遜は才能もあるし何より…男前ではないか」
後半の説得は何とも苦し紛れになってしまったが、孫権としては考えを変えるつもりはないらしい。
「それにだな、陸遜も乗り気で――」
孫権の言葉に名無しさんの涙はぴたりと止まった。心臓が高鳴る。しかしそれはときめきとはほど遠い、怒りの炎だった。
「な、なんで…、伯言が乗り気って…」
「いや、私から名無しさんはどうだと聞いたことがあってな。陸遜は快諾して…」
名無しさんは身体を震わせながら唇を噛んでいる。自分は何か不味いことでも言ったのか、と孫権が周瑜に小声で問いかけるも、周瑜は首を傾げたままだった。そんな二人を見て、尚香だけが深いため息を吐いていた。
「…わかったわ」
名無しさんは振り返り歩きだした。拳は握りしめたままだ。
「名無しさん、どこへ――」
「決まってるでしょ! 伯言が寝ぼけたことを言ったのを撤回させてきてあげる! それでこの話は終わりよ!」
荒々しくそう言い放ち、名無しさんは扉を思い切り閉めた。
「何なんだ、一体…」
まるで嵐のように去って行った姪に孫権が呟くと、尚香が静かに口を開いた。
「兄様達…陸遜から聞いてないの?」
呆れたような声を出した妹に孫権は続きを促すような視線を送る。
「…今でこそ普通に話したりしてるけど。名無しさん、陸遜に振られてるのよ? 何年も前に」
眉をしかめて言葉を失っている二人に尚香は続けた。
「…要するに、自分の一族の仇の娘なんかと付き合えるか、ってね。今はそんなこと思っていないだろうけど…ほら、陸遜がここに来たばかりの頃だったから」
「そんな話…私は聞いていないぞ」
名無しさんに今回の話が筒抜けだったように、名無しさんの情報も周瑜には筒抜けだったはずだ。それなのに何も知らないはずはないと周瑜は訝しげに呟いた。
「当たり前でしょ…あの子、誰にも言ってないんだから。一応、自分の立場を自分なりに考えているのよ」
孫呉に帰順したばかりの陸遜が、孫呉の姫君を無碍に扱ったなどと知れれば大変なことになるのは目に見えている。身内びいきにも程があるが、棘のある陸遜の断り方に孫権と周瑜が気付いていれば黙ってはいられなかっただろう。
「大丈夫かしら、名無しさん…」
心配する尚香の声が、静かな室内に響いていた。