薄桜鬼夢小説

□風邪
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千景からそう問われ、千鶴の瞳は涙でぼやけていった。察しのいい彼が気付いていないはずがないのだ。千鶴の体調の悪化の原因が精神的なものであることを。その精神が病んでいるから、本来の鬼としての回復力が発揮されないのだ。


戸惑う自分の気持ちを全て見透かされていることに、千鶴の心はなぜか安堵と不安でいっぱいになった。目を閉じると幾筋もの涙が枕に染みをつくる。千鶴は、それでも千景の手が自分の額から離れていないことに勇気づけられておずおずと口を開いた。


「辛くはないです…少し、寂しかっただけです」


賑やかな食事。いつでも騒がしい屯所。それを黙らせようと人一倍大声を張り上げる鬼の副長――


彼らを忘れたことはなかった。千景を想う気持ちとは別の気持ちで、彼らを心の中で想っていた。全てが終わり、ぽっかりと穴の開いた気持ちで江戸に戻ってきた当時の千鶴にとって、一人きりの生活はそれほど苦ではなかった。死んだ心には悲しみも不安も存在しなかった。


それが今、千景によって再び命を与えられ、千鶴はここにいる。彼に強要されたからではない。自分で選び、望んだのだ。


「もっと…この里の皆さんと仲良くなりたいんです」


紡がれる千鶴の言葉に千景は目を細めた。瞳を閉じている千鶴にはその表情は計り知れないが、彼はどんな時も前向きな彼女の発言に薄く微笑んでいた。


「ならばまず、己の心を開け。この里に棲む者はおまえの同胞であり今や家族でもあるのだからな」


千景はそう言うと、自分の横にあった盆に手を伸ばした。千鶴は額から離れてしまった夫の手に寂しさを感じたが、きっと熱のせいだと心に言い聞かせる。


「そもそも鬼に薬は要らん。だが――」


紙包みを解く乾いた音と、瓶を傾けるような水音がして千鶴がゆっくりとまぶたを開けた。その瞬間、彼女は割れ物でも扱うかのように、たくましい夫の腕で優しく抱き起こされ、口付けを落とされた。


「んっ――!!」


むせかえるように苦く熱い液体が千景の唇から注ぎ込まれる。反射的に夫の胸元を強く押したが、それは無駄な抵抗だった。


こくりと千鶴の喉が鳴り、与えられた全てを胃に流し込むと、千景はそれでも足りないように妻に口付けを求めた。千鶴は今日一番の熱に朦朧としながらも、いつしか続きをねだるようにそれに答えていた。


「……これで治らぬようなら俺がおまえの風邪をもらってやろう」


名残惜しそうに唇を離した千景は、千鶴が飲み込みきれなかった薬の跡を舌でなぞり、ふっと笑った。そして妻を横にして何事もなかったかのように立ち去る千景を見送った後、千鶴の鼓動は不意に高鳴った。


夫がここ数日で探し出してきてくれたもの。鬼には必要がないと言って、それでも自分のために与えてくれたもの。それは人間ならば誰もが知っているだろう精のつく高価な食べ物ばかりだった。


だが今、千鶴の口内に残るこの苦さと、いつまでたっても慣れぬ熱い酒。千鶴は恐る恐る身体を起こして枕元の盆を見た――














「………早速治った、か?」


妻の部屋を後にしたばかりの千景の背中に、千鶴は思わず駆け寄って抱き付いていた。彼の着物を握りしめるその手は震えていた。


「………あれは本当は…熱冷ましではないんですよ?」


千鶴は止まらない涙に構わずたどたどしく囁いた。


「ふん、人間風情の薬の効能など俺の知ったことか」


答える千景は言葉とは裏腹に、口元に弧を描いている。


「…でも、なんだか効いてきた気がします」


「当然だ。俺がおまえの為に用意した物なのだからな」


身を翻した千景は、ぽろぽろと泣きながらも何とか微笑んでいる千鶴に顔を寄せた。


「もう寂しいなどと言うな」


耳元をくすぐる囁きに千鶴はただでさえ赤い頬を真っ赤に染めて僅かに頷いた。


「おまえの側には常にこの俺が居ることを…忘れるな」


そして再び訪れた甘い口付けに千鶴は廊下だということも忘れて愛する夫を求めていた。


彼女の部屋には、既にぬるくなった酒瓶と『石田散薬』の包みが残っていた――














*END*
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