薄桜鬼夢小説
□信愛なる君へ
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「ここで何をしている」
千尋は突然かけられた声にびくりと肩を震わせて振り返った。それに反応して、木々に止まっていた小鳥達が一斉に飛び立っていく。物音一つ立てないで現れた父親を、千尋は尊敬と恐怖の眼差しで見上げた。
「別に…何も」
彼はすぐに俯き、声をくぐもらせた。色素の薄い妹とは違う、艶やかな黒髪がさらさらと耳を撫でる。
「…そうか」
千景はそれ以上口を開かなかった。薄桃色の美しい花をつけた大木に寄りかかって腰を下ろしていた息子と、その幹を支えるかのように反対側へと腰を下ろす。獣の気配は無かった。彼らにはこの二人にならば縄張りを荒らされることは無いと本能でわかっているのだろう。
春の柔らかい日差しを受けた木漏れ日と心地良い風を感じて、二人はしばらくの間黙っていた。自分よりも遥かに太いこの大木を通じて父の背中を感じる。千尋の目頭は自然と熱くなっていった。
「…父さん」
お父様、とは言わなかった。久しぶりではあったが、自然と口を出たその呼び方に違和感はなかった。
「あの――」
千尋は少し間を開けて、目蓋を開いた。
「俺の…、俺の本当の父親って、誰?」
気付かないふりをしていた。だから目を背け続けた。だが、幼い彼がそうするにはもう限界だった。周りの視線に例えようのない違和感を感じるようになったのはつい最近のことだった。そして、そんな時には必ずと言っていい程、隣に妹がいた。
自分の長い黒髪を見ても、母方である雪村の血を濃く受け継いだのだろうと思っていた。だが、隣で愛らしく笑う妹は、ちょうど両親のそれを足して二で割ったような焦げた茶色だった。そして千尋の漠然とした不安が確信に変わったのは三日ほど前の昼下がりのこと。妹を引き連れて里の周りを駆け回り、運悪く谷へと足を滑らせてしまったのだ。谷底まで転がり落ちた二人はしばらく顔を見合わせ、久々の派手な失敗に声を上げて笑った。
しかし、千尋の笑い声は次第に小さくなった。人外の治癒力が目の前の妹の深い傷をみるみるうちに癒やしていくのを眺めながら安堵を覚え、そして、いまだ血が溢れ出している自分の腕を見下ろして恐怖を覚えた。
どちらが先に谷を登れるか競争だとはしゃぐ妹をけしかけ、彼は一人その場に残った。千尋の傷が癒えたのは、妹がいとも簡単に谷を登り終えてしばらく経ってからだった。
「純血の鬼は…千草のような強い鬼になるんだよね?」
千尋は確認するように呟いた。
「だったら…どうして俺は――」
「おまえの父親は俺だ」
千景の淡々とした声に千尋が口ごもる。
「でも」
「俺では不満、か?」
「…そうじゃない、けど」
けど、知りたいんだ、と千尋が呟く。興味本位ではない、息子の揺るぎない決意を感じ取った千景は、深いため息を吐いた後でおもむろに口を開いた。
「おまえの母…千鶴は俺と祝言を挙げる前に既に子を身ごもっていた」
ごくりと千尋の喉が鳴る。
「俺は全てを知っていた。それでも千鶴を里へと連れ帰ることに変わりはなかった」
「…どうして?」
息子の問いに、千景はふっと笑みを漏らす。その「どうして」にはどれだけの疑問が隠されているのだろう。
どうして他の男の子を孕んだ母を?
どうしてそこまでして母を?
どうして母は父と?
どうして今まで隠して?
どうして今になって?
どうして…自分は産まれてきた?
「鬼は約束を守る者…おまえにもそう教えた筈だ」
約束。その言葉が千尋の頭の中に重く響いた。
「約束だから…母さんと祝言を?」
「そうではない」
「じゃあ…誰とどんな約束をしたの?」
困惑する千尋を背に感じながら、千景は八年の月日を振り返り始めた。
「おまえを守ると誓った」
「………」
「おまえの…もう一人の父親とな」
「…もう、一人?」
黙って膝を抱えてはいられなくなった千尋は、父親の方へと回り込んで彼を見上げた。
「それは…誰なの?」
続きを聞きたいのか聞きたくないのか。本人でさえも持て余すような感情の大きな波を千景は息子の表情から感じ取っていた。
だが、いつかは伝えなければならなかったことだ。千景は「彼」とのもう一つの約束に目を瞑った。
「――薄桜鬼」
「……?」
「おまえの父親の名だ」
「っ……」
一筋の風が吹く。それと同時に千尋は辺り一面の桜吹雪に包み込まれた。