薄桜鬼夢小説

□夢の跡
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中山道の宿場町でもあるここ板橋に宿を取り、その夜はささやかな酒の席が開かれた。供養塔の前では、ようやく念願かなった喜びよりも故人を偲ぶ物悲しい雰囲気が勝っていたが、今この場では絶えず笑い声が響いていた。当時の逸話は限りなく溢れ、それを面白おかしく新八が語る様に松本も歳三も腹を抱えて笑いあった。


用意してあった酒瓶は瞬く間に空となり、千鳥足の新八が立ち上がった。


「よーし、あと何本必要だ?」


俺が買いに行く、となぜか威張り散らして歩き出した新八は、とたんに畳に足を滑らせて勢いよく転がった。それをみていた男二人がさらに笑い出すと、千鶴は眉を八の字にしながら新八の体を起こす。この有り様を松前で待つ彼の妻が見たら何と言うだろう、と一人苦笑する。


「私が行ってきますから、皆さんはここで待っていてください」


新八が転んだ拍子に辺り一面に散らばしていた小銭を拾いながら千鶴が立ち上がる。酒に弱い歳三もこの時ばかりは真顔になり、日がとうに暮れた今、いくら故郷とはいえ愛する妻を一人で歩かせる訳にはいかないと立ち上がろうとする。


「あ、大丈夫ですよ。歳三さんもいてください」


そんな心優しい夫を静止して千鶴は続けた。


「すぐ近くですし、松本先生に聞いたらこのあたりの治安も昔に比べてよくなっているみたいですから」


ね、と千鶴に問われて松本は頷いた。何でも『警視庁』と呼ばれる自治組織が数年前から設立され、辻斬りだ何だと物騒だったかつての江戸も、今は随分と落ち着いてきているのだという。


「…何かあったらすぐに戻ってこい」


わかったな? と夫に念を押されて千鶴は微笑みながらゆっくりと頷いた。


「…先生、この二人は松前でもこうなんだよ」


頭をさすりながら新八が茶化す。


「蝦夷の雪もこの二人のおかげでそのうち解けちまうんじゃないかって――」


「うるせえぞ新八! 千鶴、気をつけろよ」


今のうちに行け、と歳三の目配せに答え、千鶴は部屋を後にした。そんなことよりもおまえは牛の乳を飲め! と、襖の向こうから松本の声が響く。支離滅裂な会話の内容に千鶴は忍び笑いを漏らしながら宿を出た。


昼間に松本から聞いていた通り、通りを行きかう誰もが陽気な酒を楽しんでいるようだった。戸をぴしゃりと閉めて閂で止め、たとえ外から悲鳴が聞こえても絶対に開けてはならない――そんな時代が本当にあったのかと千鶴が不思議に思うほどだった。


目当ての酒屋に向かう道のりに、先の供養塔がある。あの近藤勇か、と背後からちらほら聞こえていた昼間の騒がしさは無く、静かな闇に包まれていた。一瞬立ち止まり、千鶴は屯所で近藤にそうしていたように頭を下げる。その向こうでゆらりと人影が動いた。


「っ…」


はっと息を飲み、千鶴が頭を上げる。闇に目を向けたまま、五感が冴えわたっていく――自分の身に危険が迫っている嫌な感覚を久しぶりに思い出す。


「だ…誰かいるんですか」


供養塔に用のある者が少ないことは、千鶴にもわかっていた。彼らの誇り高い志を何も知らない民衆からしてみれば、人斬り集団の新選組という逆賊の長を処刑して何が悪い、といったところだ。その供養のために作られた墓など、不気味なだけで興味のかけらもないのだろう。


建てられたばかりのこの供養塔に用があるとすれば――千鶴はこくりと喉を鳴らして、闇の中からこちらへと近づいてくる気配に集中した。この墓碑に用があるのは、当時の新選組に仇なす者か――


「…邪魔をしたな」


――近藤勇という人間を誰よりも慕っていた新選組隊士しかいない。


「…待って、待ってください!!」


襟元をぴんと立てて顔を深く顔を覆い足早に去ろうとする男の声を千鶴は聞き逃さなかった。懇意にしている新八の手前、原田左之助という名前を口にすることはしなかったが、それでも千鶴にはずっと気がかりだった『もう一人』がいるのだ。


宇都宮で別れてから消息がわからなくなっていた、その男の名前を千鶴が叫ぶ。


「待ってください、斎藤さん――!!」


千鶴の声に男の足が止まる。そう自分が呼ばれていたころの記憶が一瞬のうちに蘇った。


「雪村…?」


その男――斎藤一は、暗闇の中でぽつぽつと涙を落とす千鶴に震える唇で問いかけた。千鶴が頷くと地面を濡らす彼女の涙の音が速くなった。


「斎藤さん、ご無事だったんですね!」


一歩近づくと、真っ赤な目をした千鶴の姿が斎藤の目に映し出された。


「雪村…おまえもよく無事で」


淡々とした言葉だが、声色はわずかにうわずっている。懐かしいその声に千鶴の心は熱くなった。が――


「あっ、あの、斎藤さん」


数年ぶりの再会だというのに、千鶴はあたふたしながら口を開いた。


「お時間いただけませんか、少しでいいんです!」


「…何?」


「宿をとっているんです、詳しい話はそこでしますから」


「宿、だと?」


斎藤の疑問に千鶴は答えない。


「お願いします、さ、来てください!」


「お、おい、雪村…何故…」


訳がわからないまま千鶴にがっしりと腕を取られた斎藤は、ひとまず酒屋に連れて行かれる事になった。
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