無双夢小説

□夢から覚めたら
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「なんだ…そうだったの」


それなら私が何か作るわ、と名無しさんは言って手拭いで顔を拭くと辺りを見回した。今日は休日だ。元からこの凌家に女官は多くないのだから余計に人手は少ない。


凌操の妻は、幼い凌統を残して病死しているため、凌操にしても凌統にしても一通りの家事はこなそうと思えばこなせられる。それは名無しさんも知っていたのだが、ここは名無しさんが請け負うことにした。本当の娘のように可愛がる名無しさんが作る手料理ならいくらでも腹に入るだろう。凌操は微笑んで居間へと戻っていった。


しばらくするとそこには凌統が気だるそうに姿を現した。鼻をひくつかせて、香ばしい香りに目を閉じる。息子を眺めていた凌操は、名無しさんに接するときの穏やかな笑みを消し、おもむろに口を開いた。


「戦の準備は整っているのか?」


父親の向かいに腰掛けて凌統は答えた。


「…今日は休みだっつーのに俺の副将さんは仕事熱心でね、おかげさまで滞りなく進んでるかな」


顎で台所を指した凌統は嫌みとも受け取れるような言葉を口にした。凌操はそんな息子の言葉をたいして気にも留めずに言った。


「いや、名無しさんにそんな暇はなかったはずだが」


首を傾げる凌統に凌操は続ける。


「あの唇をみれば名無しさんに何があったかお前にもわかるだろう」


赤く充血した名無しさんの瞳と唇を思い出して言う凌操に、凌統はああ、と呟いた。


「…そのことか」


一瞬だけ息子が口元を綻ばせたのを見逃さなかった凌操は、決して仲が良いとは言えない自分の子供たちの間に起きたであろうことに驚きを隠しながら口を開いた。


「相手は誰だか知らんが、もう少し手加減してやればいいものを。あれは見かけとは違って男に全くと言っていいほど免疫がないというのに」


その言葉が自分に向けられていると察した勘のいい凌統は、参りましたと言わんばかりに手を上げた。


「ならさ、親父からあいつに俺を誘うなって言っといてよ」


「名無しさんがお前を誘っただと…? 名無しさんがそう言ったのか?」


いつの頃からか、名無しさんの秘めた想いに気付いていた凌操は、名無しさんの唇を腫らしたのは自分だとあっさりと認めた息子に声を低くして問いかけた。


「何も言わなくてもわかるって、あんな物欲しそうな目をされればね」


明らかに批判的な息子に凌操は信じられんと言わんばかりに首を振った。


「おまえが嫌がる『そんな目』とやらで名無しさんに見つめられることを夢見る輩は大勢いるというのにな」


「だったらその大勢とやらに後は任せるよ」


「おまえは本当に名無しさんが誰にでも唇を許すと思うのか? あれは途方もない基準の中から既に屈強な一人の男を選んでいる、それがお前だと知らないわけではないだろう?」


「勝手に夢見られてもこっちが困るんだよ…」


とりつく島もない息子の様子に凌操はため息をついた。今でこそ名無しさんは凌操と共に戦場へと出兵する凌統の副将として、彼の補佐役にまでなったのだが、依然として二人の仲が深まるわけではなかった。


名無しさんの気持ちに気付いていながらも凌統は頑なにそれを拒んでいた。


「公績、名無しさんはそんなにも扱いにくい娘ではないはずだ。この辺でおまえももう少し歩み寄ってやったらどうだ?」


「さっき歩み寄ってやったさ。その結果がこのお説教ってわけだ」


揚げ足をとる息子に凌操は呆れ、ならばこの話はもう終わりだと苦笑しながら呟いた。


「…ところでさ、名無しさんが求婚されてんの、親父は知ってんの?」


「ああ…確か歩兵部隊の男だったな」


「あの男のいい噂は聞かない、親父から言って止めさせた方がいいんじゃないの?」


名無しさんには以前からその男のことを相談されていたが、できることなら自分の手助けなしに名無しさん自身が解決することを凌操は望んでいた。勿論、相手の度が過ぎればすぐにでも飛んでいくことは可能だったが、その役を息子が担ってはくれないだろうか。意味あり気な父の視線に気付いた凌統は苦笑して言った。


「変に勘ぐらないでよ、俺はこれ以上この家に変な連中を迎えたくないだけだから」


勿論、名無しさんを含めたその言葉に凌操はため息を吐いて言う。


「そんなに気になるならお前が何とかしてやればいいだろう。しかし名無しさんはもう立派な大人だ、もしかしたらお前よりもな」


「勘弁してって…」


凌統がこめかみの辺りを押さえながら立ち上がる。名無しさんがそろそろ食事を用意して来るだろう、その前にこの場を去りたかった。


「お前は食っていかないのか?」


「あいつのせいでせっかくの休日が台無しなんでね、そろそろ一人にさせてよ」


片手をひらひらと降って彼は戸口へと向かって行った。すぐさま料理を運んできた名無しさんは凌統とすれ違ったのだろう、暗くなる心をなんとか隠して愛する義父に笑顔を向けた。
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