無双夢小説

□雪柳
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「…で、具合どう?」


翌朝、医務室の寝台の横にある椅子に腰を下ろしながら、凌統は静かに問い掛けた。布団の中から熱のせいで真っ赤に充血した目だけを覗かせたまま黙っていた名無しさんは、こほこほと咳き込みながら「だいじょぶです」と呟いた。


「何が大丈夫、だよ」


軽口を叩きながらも彼は持参した蜜柑の皮を器用に剥いていく。熱でぼんやりする名無しさんにも、甘酸っぱい果実の香りが漂っていることがわかった。


「熱があったのはあの半裸野郎じゃなくてあんただったって落ちか…道理であんなに熱かった筈だ」


彼女が触れた腕の熱さ、そして彼女が離れた時に感じた寒さの理由に納得しながら、凌統は蜜柑を一粒摘んだ。


「何も食ってないんだって?」


ほら、と布団を捲り、指先を名無しさんの唇へ運ぶ。しかし名無しさんは途端にそっぽを向いてしまった。膨れた頬まで真っ赤になっている。凌統は苦笑しながら手を一度引っ込めた。


「怒るなって」


笑いながら、剥いた蜜柑を自分の口に運ぶ。流石に、名無しさんを妹分の如く可愛がる姫君から渡されただけあって上等なものなのだろう。とても甘く、瑞々しい。


「名無しさん、こっち向けって」


口は開かないが首を振って拒否する名無しさんに凌統は再び苦笑した。話したくもないし食べたくもないらしい。本来、正直で素直な彼女らしい行動だった。


彼はもう一粒、自分の口に含んだ。


「じゃ、口移しでなら食べるかい?」


途端に名無しさんが咳き込む。苦しそうに布団を上下させる名無しさんの背中に、凌統がすかさず手を伸ばしてさすった。


「…冗談だって」


以前ならば軽く流せたそれも、今の名無しさんには厳しいらしい。凌統は名無しさんが落ち着いてから再び蜜柑を一粒摘んだ。


「食べないと治るものも治らない。我が儘言ってないで食べなさいよ」


立ち上がった凌統は、ほら、と背を向けたままの名無しさんの口元にそれを運ぶ。


「あんた、軍医だろ? そんなんで誰を守れんの?」


その台詞は熱で上手く働かない名無しさんの脳をも刺激した。渋々口を開けたのを確認すると、凌統はそれをそっと含ませる。


「…はい、いい子」


名無しさんの髪を軽く撫で、彼は静かに微笑んだ。互いに素直に接することができたのは、随分と久し振りだった。


彼女が自分との関係を失ってでも進みたいと願った道。それが医者になるという事だった。元より医療に関する知識は豊富だった。先代までが皆、医者だった名無しさんの家系は、彼女がそれを志す地盤を一層固めていた。


最後まで反対したのは、凌統だけだった。


「ほら、もう一つ――」


凌統が言うと、名無しさんは突然身体を起こし、ふらつきながらも姿勢を正した。


「自分で…食べます」


それ下さい、と手を伸ばす。凌統は残っていた蜜柑を彼女の手に渡して腕を組んだ。見続けられる居心地の悪さを感じながらも、名無しさんはその蜜柑を食べ始めた。彼とこうして二人きりになるのは、名無しさんが彼の元を去ってからはじめてのことだった。


最初の半年は徹底して彼を避けた。「凌統の婚約者」として顔の知れ渡った自分を、ただの「軍医見習い」に変えなければならなかったのだ。他人も、そして自分も、変わらなければならなかった。何より、自分との婚約を破棄してまでこの道を選んだ彼女に最後まで理解を示さなかった凌統を変えなければならなかった。


そして、冷たい風が吹く中で別れを決めて、彼を一人、あの寂しい邸に取り残してきてまで選んだ現実の重さを、名無しさんは自分自身に嫌と言うほど知らしめなければならなかった。


「…ちゃんと噛めって」


小さな粒とはいえ次々と丸呑みしていく名無しさんに凌統が言う。最後の一粒をごくんと飲み込むと、名無しさんの瞳から一筋の涙が零れた。


「…もう一つ、食べる」


真正面を向いたままかすれた声でそう言う名無しさんに、凌統は籠の中の蜜柑を一つ手渡す。彼女の涙を見たのは、彼女が父親を失った三年前のあの日以来、初めてだった。泣き崩れて取り乱す名無しさんをなだめるのに、彼はある意味適任だった。敬愛する父親を戦場で失ったのは、彼の方が先だった。


互いに唯一の家族を失った二人の関係は、その傷をも癒していくようにゆっくりと進展していった。いつしか同じ邸に住むようになって、いつしか当たり前のように婚約した。だが、凌統が数ヶ月に及ぶ戦から無事帰還した日の夜、名無しさんは邸にはいなかった。


不安に駆られた凌統が城へと向かうと、名無しさんはそこにいた。彼女は、真っ赤な血を浴びながら、命辛々帰還した負傷者の手当てに明け暮れていた。


彼が最も遠ざけたかった「死」に、彼女は自ら近付いていったのだ。
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