無双夢小説

□玉響
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傷を手当てして、かつ心までも安らがせる名無しさんの存在は、今の夏候惇が自身で認識している以上に大きかった。しかし、だからといってかつての部下と恋仲になるなどということは、ある意味生真面目な夏候惇の辞書には存在しなかった。


「ずいぶんよくなってきてますけど、まだ消毒は続けた方がいいみたいですね〜」


「おまえがそう言うならそうなんだろうな、近いうちにまた来よう」


「ええ、お願いしますね」


まるで自分のことでも頼むように名無しさんが笑う。夏候惇は、内に秘める名前のないこの想いをただの情だと決めつけて立ち上がった。


「あ、それと」


夏候惇を見上げ、名無しさんは柔らかな笑みを湛えたまま言葉を続けた。


「夏候惇様が、その『勲章』の意味もわからないような奥方様を迎えられなくてよかったです」















目の前には小ぶりな飾りがついたかんざしがある。夏候惇はかれこれ一時間ほど卓の上にあるこの女物の髪飾りを睨みつけていた。扉を叩いていぶかしげに入ってきた従兄弟にもかまわずに。


「…重傷だな、こりゃ」


こめかみのあたりをかきながら夏侯淵はつぶやいた。


「さっさとそれ持って、医務室に行ってきたらどうだ?」


さも面白くなさそうに鼻を鳴らした夏候惇は、そのかんざしを引き出しの中にそっとしまった。


「まるで他人事、だな」


「そんなことねえって! 惇兄の世話をやいてくれる女がいたら、俺の心配も少しは減るってもんだ」


豪快に笑いながら夏侯淵は腰掛けた。


「傷の手当てもできる名無しさんならその役にもってこいだ」


「…俺はなにも専属の医者が欲しい訳ではない」


「いや、それはわかってるけどよ」


そうじゃなくて、と、夏侯淵は首を振る。


「あいつの雰囲気っつーか度量っつーか…まあ、そーゆーのが惇兄には合ってると思ってさ」


夏侯淵は顔馴染みの名無しさんを思い浮かべながら言った。


「殿だって惇兄に早いとこ婚儀を挙げさせたいみたいだしよ」


夏候惇の頭を悩ませる一番の要因がそれだとは知らずに夏侯淵が言う。初めての見合いを散々な結果で終わらせた彼の元には、次から次へと正妻候補が送られてきた。それはもう、一国の主を支える忠臣である夏候惇に見合うような高貴な姫君たちが。


しかし、夏候惇の心の大半を占めているただ一人の女は、見合いの席ではなく医務室にいるのだ。当たり障りなく、それでいて乗り気ではないことを全面に押し出した夏候惇の対応は、生まれながらにして温室で育てられ、愛されること、敬われることに慣れきっていた姫君たちにとっては侮辱以外の何者でもなかった。


曹操の顔に泥を塗るつもりはない。しかし、結果としてそうなってしまっているのかと思うと頭が重い。自分ですら最近まで認められなかった元部下に対するこの想いを、どう表現すればいいのか…彼は悩んでいた。


口を閉ざしたまま顔をしかめている夏候惇に、夏侯淵は忍び笑いをもらした。どうもこの従兄弟様は色恋には奥手らしい。戦場での血気盛んな姿を思い出してほしいものだ、と。


「なあ、惇兄」


「何だ」


「なんなら俺が間に入ってやろうか?」


「…餓鬼でもあるまい、遠慮する」


断られることを知った上でそう持ちかけていた夏侯淵は、はいはいと軽く頷いて立ち上がった。


「じゃ、俺は高みの見物でもするとしますか」


口笛を吹きながら軽い足取りで去っていく夏侯淵の企みに気付いていれば…と、後に思い知ることになるとはつゆ知らず、夏候惇は今日もまた深いため息をもらしていた。
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