無双夢小説

□笑門来福
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殿が笑っている――


この先二度とお目にかかれないだろうと思っていた三成の爆笑と遭遇してから数日後のこと。左近は縁側でまたもや涙を流しながら腹を抱えている三成の姿を見て口を開けていた。


咄嗟に左近の脳裏にはあの名無しさんの居眠り姿が蘇る。しかし縁側にいる三成の目の前に広がるのは中庭だ。ぬくぬくとした布団はそこにはないはずだ。左近は頭の中の名無しさんを追い払って三成の元へ近づいて行った。


「くっ…」


抑えようにも抑えきれない笑いを浮かべた三成は左近の姿を見てさらに笑った。


「殿…?」


恐る恐る口を開いた左近は縁側から中庭を眺める。さしあたり笑えるようなものはないようだが――


庭の隅のとあるものを目にした途端、左近は目を見開いた。信じられないその光景に、眉間に皺を寄せ口はあんぐりと口をあけたまましばらく動かなかった。いや、動けなかった。


中庭の片隅には昨日の汚名挽回のためか、ほうきを手に汗を流していた名無しさんの姿があった。しかし、流しているのは汗だけではない。


手慣れた庭師の言うこともきかずに大木の周りを一生懸命掃いていた名無しさんの頭には、それをあざ笑うかのように烏が糞を落としていったのだ。


ただ呆然と立ち尽くす名無しさんに三成は笑いながら涙を浮かべていた。どうしてこんなにも可笑しいのだろうと頭の奥で考えながら。


「…くっ、まずは風呂だな…、左近、連れていってやれ」


その言葉に左近はぴくりと反応した。女官達の大浴場は日が暮れてから湯を張るのだ。日がまだ真上に昇るこの時間に風呂場に連れて行ったところでどうにもならない。しかも私は一応男ですよ――


そんな左近の視線を読み取った三成は苦笑しながらも口を開いた。


「…俺の風呂、だ」


「っ、殿!そりゃさすがに――」


「いいから連れて行け、頼んだぞ」


確かに三成の風呂場に名無しさんが現れたところで入れる訳がない。しかし左近が三成直々に頼まれたとあってはそれに反対する者はいないだろう。三成は腹を押さえながら立ち尽くす名無しさんと唖然としている左近の元を去って行った。


「…はあ、しょうがない…、行きますよ?」


何が起こったのか理解できていない様子の名無しさんの手を引き連れて左近は風呂場へと向かって行った。














「…ただいま戻りました」


納得のいかないまま左近が執務室の襖を開けると、先ほどの笑い顔が嘘のように眉間に皺を寄せ難しい顔をしながら書類に目を通す三成がいた。


「ああ、ご苦労」


簡単に返事をした三成はその書類から目を離すことなく戻ってきた左近に告げた。


左近はゆっくりと自分の卓の前に座り三成を眺める。今回ばかりは殿が何を考えているか読めないな…、そう思った左近は単刀直入に三成に聞いてみようと思った。


「殿…」


「…なんだ?」


相変わらず書類から目を離さない三成に左近は言葉を続けた。


「あれはさすがにやりすぎじゃないですかね?」


何のことだ、と三成はようやく顔を上げた。左近は先日の名無しさんの涎姿を思い出しながら口を開いた。


「殿があそこまでしてやる必要はないんじゃないですかね? 女官が殿の風呂に浸かるなんて…前代未聞ですよ?」


そのことか、と三成は苦笑した。確かに左近の言うとおりだ。あれが他の女官ならば間違いなく風呂には通さなかったはずだ。


「済まなかったな、だがそう悪く思わんでくれ」


「いや、悪く…って訳じゃないんですが…」


左近の言いたいことはわかる。他の者に示しがつかないと言うのだろう。だが――


「好きなんだよ」


「…は?」


「俺が」


「…誰、を?」


「あの女を」


左近は盛大に口にした茶を吹き出した。三成はそれを見て目を細めながら言った。


「…この石田三成には色恋は無縁とでも思ったか?」


「や…、いや…」


まさか「はい、そう思っていました」とは言えない左近は卓を拭きながら口籠もっている。


「…理由など聞いてくれるなよ?」


「えっ?」


「俺にも…さっぱりわからんのだからな――」


そう言って三成はまた書類に視線を戻した。わからないと言いつつも、三成の頬は僅かに色付いている。左近はそんな三成にいつの間にか温かい視線を向けていた。


感情、特に喜怒哀楽の「楽」を表すことを苦手とする殿をあれほど笑わせたのだ。氷ついていた心も温かくなったのかもな……。


いつの間にかニヤニヤしている左近も三成の心を知った今は全て納得がいく。感情表現が豊かではない三成の精一杯の気持ちの表れが、あの行動だったのだ。


…となるとこの左近、奥手な殿の為に一肌脱ぎましょうかね――


左近が不敵な笑みを浮かべたのを感じとった三成は書類に目を通しながら口を開いた。


「余計なことを…考えるなよ?」


「はて、何のことでしょうかねえ…」


そして三成の氷ついた心を溶かした一人の女官がその正室に迎えられたのはそれから一年後のことであった。














*END*
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