「せんせー、一緒に写真とろーぜー」


この学園の男子生徒にとって、今日という日は「三年間の思い出を胸に涙ぐむ卒業式」ではなく「学校という監獄からようやく出られる記念日」なのかもしれない。


いつにもましてワイワイと騒いでいる生徒たちに囲まれた原田左之助は「おまえら落ち着け…ちょ、押すなって!」と一つとびぬけた頭を揺らしながら対応に追われていた。三年間、ジャージで生活する生徒が大半だったこの学園では、卒業生の制服も年に数回の式典時にしか着用されずどこか真新しい感じがする。しかし、それを言うなら今日の左之助も同じで、いつもの緩いスーツ姿とは違うおろしたてのような黒の背広だ。彼らの門出を祝う左之助の正装は、それをあと一年後に控えた雪村千鶴の目にも強い印象を与えていた。


「千鶴ちゃーん、こっち見てよー」


学園唯一の女子生徒である千鶴の周りにも、左之助同様、卒業生たちがごったがえしている。通常では「こんな野郎どもばかりのむさくるしい学園にわざわざ入学してくれた唯一の女子生徒をわずらわせるようなことは断じて許さない教師たち」の厳しい目があったので、彼らも千鶴とお近づきになるには文字通りこれが最初で最後なのだ。


困ったような愛想笑いを浮かべる千鶴の横には、彼女のボディーガードたる幼馴染が張り付いている。先輩たちの度が過ぎないように事の成り行きを見守っていた平助も、その波が引けると「先輩に挨拶に行ってくるからちょっと待っててくれよ」と、その場を離れた。


ふう、と息を漏らした千鶴は、ぎこちない顔の筋肉をほぐすように両手で頬をおさえた。


「まさかあの中に好きなヤツでもいたのか?」


突然声をかけられて千鶴が顔を上げる。そこには左之助が男子生徒には見せない挑発的な笑みがあった。


「ち、ち、違いますっ!」


かあっと熱くなる頬から手を放して千鶴は抗議の声を上げる。担任にからかわれるのは日常茶飯事だが、全力で否定してしまった自分に恥ずかしくなり少しうつむいた。


そうかもしれませんね、と軽く流せば済む話なのだ。あっちも軽い気持ちで話しかけてきたのだと千鶴はわかっている。わかっているのに――


「ならいいけど」


ふっと微笑む左之助の小さな声に、千鶴の頬は真っ赤に染まった。まーた左野さんが千鶴ちゃんをからかってるよ――そんな声がどこからか聞こえた気がした。左之助が何をささやいたか知る由もない周りからみればそうなのだろうと千鶴も気づいてはいた。だから左之助相手に幼馴染がが血相を変えて助けにくることはない。


千鶴だけが、左之助の冗談と本気の間で揺さぶられているのだ。


「…ずるいです」


我慢の限界だった。千鶴の足元に一粒の涙が落ちた。


「そうやっていつもいつも…冗談ばっかり言って」


左之助の発言を冗談と決めつけたのは千鶴に残された最後の防衛手段だった。


もし本気なら、隣で男子生徒に囲まれている千鶴をみて平気でいられるはずがない。もし本気なら、時折そんなことを言って、翌日には何事もなかったかのように話しかけられるはずはない。


もし本気なら――


「先生の冗談はもう…聞きたくありません」


ぽつりともう一粒の涙が落ちる。どうして聞きたくないのかはわかっていた。でも千鶴にはそれを上手に言葉にできるほどの確固たる確信がない。そしてそれを駆け引きに使えるほどの経験もなかった。


卒業生が旅立って感慨深くなってしまった女子生徒がぽろっと涙をこぼした。そんなふうに見えていたことだろう。そして左之助がうつむく彼女の頭を撫でて慰めているのだろうと――


「ごめんな、こうすることしかできねえんだよ」


左之助の表情は生徒をなだめるやさしいそれだったが、声色には切羽詰まった苦しさが潜んでいた。千鶴の気持ちを彼女の少ない言葉と仕草から確信できるほどの経験を持ち合わせていたことを彼は初めて幸運に思った。


「おまえが他のヤツにとられるんじゃねえかって気が気じゃねえのに、教師だからって黙ってなんていられねえんだよ、こっちは」


涙でたかぶっていた気持ちが一気に静まる。左之助の一言一句を逃すまいと、彼女の神経は彼女の頭上から囁かれる声に集中した。


「でも教師だし担任なのは変えられねえからな…あと一年、おまえの気が変わらねえようにできることなんてこんなことくらいしかなくてよ」


大きな手で割れ物を扱うようにやさしく撫でられる。父親にそうされるのとは別の心地よさが千鶴の小さな身体と心を包み込んでいく。ほのかに甘い香水の香りが彼女の鼻先をくすぐる。


「冗談は言ってねえし、それだけはわかってくれよ」


だからその答えを言って――千鶴は恐る恐る顔を上げた。


「おまえが好きだよ、千鶴」


ぽんぽんと頭上の手が念を押すように跳ねる。


「あと一年、がんばれるか?」


千鶴は意識していなかったが、ゆっくりと頷いた。心底ほっとしたような表情を一瞬だけみせて、左之助は少しだけ屈めていた背を元に戻した。


「…ほら、平助が来たぜ。気を付けて帰れよ」


千鶴は振り返って、自分を呼ぶ平助に手を振った。あっという間に日常に戻ってしまった気がして、ちらりと左之助を振り返る。


彼は満開の桜の下で、生徒に戻った千鶴を送り出すように頷いた。




























「随分と長い『指導』だったじゃねえか」


学園の教頭である土方歳三が腕を組みながら左之助に声をかけた。


「ああ、卒業式ってやつに感極まったみたいでさ」


にやりと微笑む左之助に、歳三は力の入っていない蹴りを入れる。


「重々承知してるんだろうがこのご時世だ、せいぜいうまくやってくれよ?」


彼女が学園の生徒である以上、卒業までには一切手を出すな――歳三の視線の意味するところを理解した左之助は「かなわねえな、あんたには」と苦笑した。


「たった一年繋ぎ止めておけねえような気の迷いなんかじゃねえから安心してくれ、教頭先生」


「気の迷い程度でうちの生徒に手え出したらそれこそ黙っちゃいねえよ、バカ野郎」


彼らもまた校舎に戻り、教師へと戻って行った。






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