企画小説

□10万打企画
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ぽたぽたと落ちる涙を乱暴に拭いとり、レッドは大きな木の下に蹲っていた。レッドの頬には涙だけではなく、真新しい紅が涙と滲むように存在している。その紅はレッドのものではない。このワーズの中では日常になってしまった、社会の中での非日常。

幼いレッドには、その差異が何たるかすら理解できず、昨日まで同じ釜の飯を食った仲間を屠らなければならない現実に苦しむしかできなかった。


「っ…う、くっ…!」


辛いのは自分だけではないのだと言い聞かせるが、涙は一向にやむ気配を見せてくれない。涙を拭った手に渇きかけていた紅が滲んでいた。訓練が終了した森は恐ろしいまでに静かで、レッドの脳内により鮮やかに先ほどの記憶を呼び起こす。


「はぁ、っ…。」
「…こんなことで何してんだ?」

「っ!」


涙を堪えようと息を吐き出したレッドは、急に声をかけられてビクリと身体を震わせた。気配に気づかなかった自分に驚きを隠せなかった。けれど、声の方に振り向いた瞬間、レッドの警戒心は霧散する。

そこにいたのは同門であり、レッドに最も近い存在であるコウガだった。


「コウ、ガ…。」


呆然とするレッドに向かって、コウガは少しだけ目を丸くする。レッドがコウガの存在に気づかぬ程動揺していたのは身体を震わせた時点で知っていたものの、こうまで無防備にされるとは思っていなかったのだ。

だが、驚愕と同時に理解する。レッドの動揺がそれほどに深いものであることを。


「あーあ、すっげぇ間抜け面だぞ?」
「う、うるさい…!」


呆然としたままのレッドにコウガが近づき、紅と涙が滲んで薄い桃色になっていた頬を拭う。指で拭った痕がまるで白粉を塗ったように、肌本来の色を映しだしていた。

レッドはコウガの些か乱暴な手つきに軽く睨み返すが、それはコウガの苦笑に黙殺されてしまう。レッドと同様、コウガもまた年齢としては幼いものの、ワーズで生活している内に精神年齢が実年齢を上回ってしまった子供とは言えない子供だった。


「今日、実践訓練だったんだって?…師範がお前のこと、えらく褒めてたぞ。」
「…師範が?」

「ああ、難しい言葉で言われて少し分かんないとこもあったけど、稀に見るイツザイとか言ってた。」


コウガの言葉を聞き、レッドは暗い表情を隠せなかった。その表情に気づいたのだろう。コウガは頬を拭っていた手を離し、レッドの頭をぽんぽんと優しく叩くように撫でた。

ほとんど同じ身長の相手の頭を撫でるのは、何とも不思議な感覚であるが、コウガはレッドが暗い表情をしている時、決まって彼の頭を撫でる。それはレッドと親しくなってからの癖のようなものだった。


「やっぱ嬉しくなんかない、よな。」
「…、」
「友達殺して、褒められたくなんて…ないよなぁ。」


少し震えた声で、コウガがレッドに向かって独り言のように呟く。レッドの頭を撫でていた手は、いつの間にか彼の背に回っていた。思いの外、力強く背に回された腕に、レッドは直感的に理解する。

ああ、やっぱり辛いのは皆一緒なんだ。


「コウガ、」
「…ん?」
「辛いか?」

「…何でお前が聞くんだよ。…一番、辛そうにしてたくせにさ。」


レッドの肩口に埋められたコウガの顔から、掠れた声がレッドの鼓膜に届けられる。コウガの言葉に、レッドは力のない笑みを浮かべて、そうだな、と返すことしかできなかった。

震えているコウガの身体。微かに聞こえる嗚咽に、レッドはしばらくの間瞼を閉じた。


「――…、」

「…レッド、」
「分かってる。でも、あの子は警戒しなくても大丈夫だ。」


ガサリと草むらが音を立てたと同時に、レッドとコウガは意識をそちらに向けた。コウガは警戒するように構えるが、レッドは柔らかい笑みを草むらに向けている。おそらく、レッドの知っている者の気配なのだろう。

コウガは警戒を薄めて、草むらからその者が出てくるのを待った。


「――…、―。」
「おいで、ニョロ。」


レッドが手を伸ばし、草むらから青色のポケモンが飛び出してくる。その姿にコウガは目を丸くした。

コウガたちの身長の半分程のポケモンは、この地方では珍しいニョロゾだった。ニョロゾはレッド以外の人物がいることに少し怯えているようだったが、コウガがレッドと親しい間柄であると瞬時に理解したのだろう。おずおずとレッドに擦り寄ると、コウガにも大きな丸い目を向けてきた。

その目に警戒心は存在しておらず、そこにあるには好奇心だけだった。


「久しぶり。…大丈夫だったか?」
「――!」


レッドの問いかけにニョロと呼ばれたニョロゾは満面の笑顔で手を上げる。肯定を示すジェスチャーにレッドは安心したように息を吐き出した。
コウガはその様子を見ていたが、やがてレッドとニョロに近づいてニョロの頭を撫でる。


「へぇ、初めて見る奴だな。レッドの友達か?」
「…ああ、ここに初めてきた時に森で会ったんだ。」

「…――…。」


レッドの言葉に、ニョロは少しだけ困ったような表情をした。しかし、言葉を伝える術を持たないニョロがレッドに真実を伝えることはできず、そのまま二人の会話を見守るしかできない。

レッドとコウガはニョロをただ優しく撫でていた。慈しむことを教わらなかった手は、血に濡れてしまっている。けれど、こうしてニョロを撫でている時は年相応の子供に戻れた気がしていた。


「なぁ、レッド。」
「ん?」
「このまま逃げられたら、なんて思っちゃだめだよなぁ…。」


ぽつり、とコウガが言った言葉にレッドの表情が驚愕に変わる。そして、素早く周囲の気配を探った。その様子にコウガは苦笑を零す。周囲を警戒しなくてはならない発言をしたのは自覚しているが、レッドと同じくらい気配を読むことに長けているコウガが何の脈絡もなくこのようなことを言うはずがないのだと気づいてもいいだろうに。

だが、もしものことを考えればレッドの行動は正しいのだ。こうして森でポケモンと会っている分には訓練が少し厳しくなる程度か、何のお咎めもないかのどちらかだが、先ほどのコウガの発言は誰かに聞かれた時点で異端分子として処分されても仕方のないものだった。


「…大丈夫、誰もいやしない。」


ニョロの頬を撫でながら、静かに言ったコウガにレッドが大きく息を吐き出す。心底安堵したと言ったような表情だった。その様子にコウガは苦笑を零す。コウガの苦笑を見たレッドは少し怒ったように眉を寄せた。


「それ、俺以外の前で言うなよ。」
「言わないって。そこまで俺も命知らずじゃない。」


釘を刺すようなレッドの言葉に、コウガはあくまでも穏やかな声で返した。二人のやりとりを見守っていたニョロはおろおろした様子だったが、安心させるようなコウガの笑みに落ち着きを取り戻したのだろう。

少しだけ息を吐いて、苦い表情をしているレッドにも擦り寄った。


「どうした、ニョロ?」
「――。」


ニョロがレッドの頬に大きな手を添えた。そっと顔の線をなぞれば、そこには流れた涙の痕が残っている。そして、ニョロは自身の頬を撫でていたコウガの頬にも手を添えた。

二人の頬に添えられたニョロの手は、まろい線を伝う涙の痕を拭っている。ニョロの行動に、レッドもコウガも言葉を失っていた。


「――…、…―。」


二人にはニョロが何を言っているのか分からない。けれど、必死に頬を拭う手が、懸命に何かを伝えようとしている表情が、ニョロがレッドたちを元気づけているという事実を教えていた。

ふいに胸が温かくなって、レッドは止まったはずの涙がまた滲んできたことを自覚する。歪む視界が涙の存在をレッドに教えていた。泣いてはいけないと言い聞かせても、ぽろり、と流れてしまった温かい水の感触がレッドの決意を崩壊させる。
コウガもまた、レッドと同じように泣くまいと堪えていたのだろう。しかし、目じりには既に溢れでんばかりの涙が浮かんでいる。

二人の頬に添えられたニョロの手が、幼い背中に回り、優しく撫でるように叩かれた瞬間、二人は声を上げずにただニョロに縋って泣いていた。





(泣いて、泣いて、今だけは子供に戻って泣いてください)











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