短編小説

□言の葉の民
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日本の夏。蒸し暑い空気とけたたましい蝉の声。虫を追う子供達。焼け野原に並ぶバロック小屋の中に、一軒だけ焼け残った本屋がある。
近所の教会の鐘が高らかに鳴る。もう十二時なのか。風に靡く風鈴が涼しげに鳴る。陰になった本屋の中はひんやりとしていて、纏わり付くような空気が、ここでだけは気持ちよく感じられる。
もう4時間近くも真剣に古書の写しを読み続ける異人の男を、本屋の主人は不審に思っていた。
「お客さん、水、どうぞ。」
彼は驚いたように見えた。数回目を行き来させて、結露を纏うコップを受け取ると、小さく揺れる水面を眺める。
「いやあ、今日は殊更暑いですなぁ。お客さんは、何処の人でしょうか?」
やっと聞けた。開店直後からはや4時間、店主は心が軽やかになった。
「幼い頃にウェールズの田舎からロンドンに引っ越した。十五でニューヨークへ渡ってその後はドイツ国内を点々としていた。もはやどこを答えればよいのか分からない。」
「イギリス人でいいではないですか。」
店主は自分の分の水も持ってくると、一気に飲み干して言った。
「そう思うか。」
「ああ。ドイツですか。気にすることは無いですよ。自分の国だと思ったところが母国なんですよ。」
「…………。」
店主は男の顔色を窺いながらコップを回収する。
「………………。」
男は依然として無言で本を読み漁る。気難しい容貌が、眉間に寄る皺で余計に近寄り難い。
「日本文学がお好きなんですか。」
本の埃を払いながら、店主は奥の倉庫から出てきた。
「いや、気が向いただけだ。三種の文字を使うなど珍しい。」
「言語学での御留学で?」
「言語学者みたいなものだ。」
「おや。」
男は疲れた首をぐるりと回すとため息をついた。それを横目に店主は再び倉庫へと戻る。
「辞書が欲しい。漢字が分からない。」
奥からガタンバタンと音がする。先程の倉庫への扉が開くと、玉汗を流す店主が出て来た。
「そんなことだろうと思いましたよ。……この椅子にお座り下さい。それと、これは万葉仮名の一覧が付録に付いてます。参考にどうぞ。」
「…………。」
男は先程同様、少し戸惑うと、静かに椅子に腰掛けた。店主は彼と向かい合うようにして椅子を置くと、自らも腰を下ろした。
「それは万葉集と呼ばれる歌集で、日本最古の物でございます。ご存知でしたか?」
彼は首を横に振った。
「およそ千三百年前に作られたもので、仮名の一種の万葉仮名が使われております。中国から輸入した漢字の読みで日本語を書き表したのです。」
「ならこれは何だ。」
先程本棚に戻した本を開く。訓点の振られた「十八史略」であった。
「それは日本語ではありませんよ。大昔の中国の文献に、日本語で読めるように記号を振ったものです。ほら、数字や仮名が振ってあるでしょう。これを規則どおりに辿るのです。そうすれば、少しばかり辞書を引けば読めてしまうんですよ。」
誰が考えたんでしょうね、と店主はたいそう満足そうに話す。日本人の誇りなのだろうか。
「それは、中国語を日本語で克服したということか。」
「……まあそんなところですね。昔は中国から文字を教わり宗教を受け入れ技術を学んだ日本は、明治に入って西洋に追いつこうと必死に文化の輸入を始めました。昔から、他所のものを入手して改造して自分のものにしてしまうんですね、日本人は。」
彼はにっこりと微笑んだ。男の頬の緊張が少しばかり緩んだように見えた。彼はおもむろに口を開いた。
「信じ難いとは思うが、もし、魔術や超能力といったものが実在してそれは特別な言語で命令文を作らなければ発動しないとしよう。ここで、なぜ自分の意思を口に出さなければならないんだろうか。」
店主は頷き、目を閉じて考える。
「この呪文とでも言えるものが必要なくなれば、圧倒的に優勢になりうるんだ。」
彼が男の話を受け容れることができたように、男には思えた。
「……私はそのようなことを聞いたことはありませんが、どうやら存在するようですね。……なんと素敵ではありませんか。あなたの世界でも言葉がいきいきとしているだなんて。」
「言葉が……いきいきと?」
「そうではないのですか?言葉に思いを込めているのでしょう。」
「…………そんなこと、考えもしなかった。」
店主は得意げに男の眼を見つめると、一冊の本を、本棚の中から選び出した。
「私のお気に入りは古今和歌集です。この仮名序をお読み下さい。」

やまとうたは、人のこころをたねとして、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。

「和歌は人の思いを種に、幾万もの言の葉になる。」
「ええ、左様です。」
「………………。」
「筆が剣に勝るのと同じに、言葉は実力より遥かに強いのです。魔法や霊術といえば、自然のもの、つまり水や風を操ったり、眼に見えない力で物を動かしたりすることを想像するのですがねぇ……もしそうなら、操りたい対象に自分の意向を伝える為ではないでしょうか。風に対して何かを飛ばして欲しいとか、特定の何かにここに現れて欲しいとか、透視したい相手の心に向かってお前の心の扉を開いて欲しい、といった具合に。」
男は合点がいったような顔をした。しかし、直ぐに反例を見つけたようだ。
「なら、文字を書いてもいいのではないか。確かに一部のものには、文字を書いた物体で行使されるものもあるが。」
「…………。」
長い沈黙が続く。男も、店主が考えているのを分かっている。だからこそ、敢えて質問を付加したり、余計に口出しをせず、自らも彼の仮説と自らの反例を吟味する。本屋の中のひんやりとした纏わり付くような空気がすうっと流れた。微かに風鈴が鳴った。

「言葉に出さなければ、何も伝わらないからですよ。」

店主は唐突に答えを出した。

「言葉に出さなければ、何も伝わらないからですよ。」

この一文が、何度も胸に木霊する。その度に、男は胸がしわくちゅにされるような感覚に陥った。

 
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