短編小説

□言の葉の民
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十七年前、わけも分からず言われるがままに、ロンドンからアメリカに渡った。世界一豊かな国だったはずのアメリカは、その面影などどこにも残していなかった。
 やがて世界恐慌が終わると、俺はヨーロッパに帰ろうと、俺を好いていた男に同行して数年間バイエルンのある都市に住んだ。この時点までで、俺は自身を取り巻いていた現実を理解するに至った。この世界にシャーマンが居たこと。また、彼らは二つの派閥に分かれて覇権を争っていたことと、俺はその片方の頂点を継ぐ唯一の正統者であること。そして、ともにアメリカからドイツへ越してきた彼が自分と血が繋がっていたこと。
 その時台頭したのがナチスだった。平和なロンドンの暮らしを捨てなければならなかったのも、全てはシャーマン達の抗争のせいだった。もうこれ以上、この戦いの被害に追うのはごめんだ、そう思った時でもあった。
 そこで俺はベルリンへ移住し、ナチス高官に詐欺を働いた。簡単だった。魔術を使って「自分は神の使いだ。今こそユダヤ人をこの地から一掃し、世界に平穏を取り戻すときだ。」と説得したのだった。
 案の定、俺の派閥・マリア派と対立していたユダヤ人達は、殆ど洗いざらい全てナチスの手中に収められていった。次のユダヤ人の指導者は、ユダヤ人の中にもうすぐ生まれるとの事だった。敵の指導者が生まれてくる前に殺してしまえば、その派閥を殲滅するのは容易いことだった。
 しかしそう上手くはいかなかった。フランスを降伏させ、勢いづいた第三帝国はイギリス本土空襲作戦に着手したのだ。それだけは避けて欲しかった。俺のロンドンを爆撃するなど、到底許せはいしない。
 そして俺の神格性までもが否定されることになった。原因は、一般的に想像される「天使」の想像図とはかけ離れた振る舞いを俺がしていたことと、バイエルンでの同居人かつ恋人であったミヒャエルによる告発だった。ミヒャエルがなぜそんなことをしたかだと?そんなの俺に    に決まっている。
 バトル・オブ・ブリテンに失敗した第三帝国はその後、敗戦の一途をたどった。俺は同盟国の日本に逃れ、枢軸国の混乱の収拾を図ろうとした。が、誰も俺の提案に耳を傾けるものはいなかった。
 そして迎えた敗戦。去年の十一月、アメリカに移住したユダヤ人の中に新しい指導者が生まれたと聞いた。

 ふと今までの自身を振り返ってみた。
 これまで、一体誰に本心を曝け出したことがあっただろうか。別に、本音を言いたいと思ったことがなかっただけなのだが、これが、少なくとも敗因の一部であることは確かだと思う。
 もし自分の意思表現の不足がいけないならば、どうして「言語」というものに限定されたのだろうか。それはなぜヒトが言語を獲得したのかと聞くようなものであるかもしれない。だがそれはごく自然発生的なものであったと思っている。伝達速度も、習得難易度も、費用対効果も、どれをとっても頭脳中の事象の伝達としては素晴しいからだ。理屈抜きで、どのシュにも備わっている生きていくための感によって、言語というものを捕えたのではないか。他の種にも同様の行動はあるに違いない。鳥の鳴き声にしろ、特定の動きにしろ物質にしろ。ただ、それがヒトの場合は他の多くと大きく異なっていただけに過ぎない。
 男が本を置いた。目が完全に他所の世界へ逝っている。主人は何も言わない。学校帰りの子供達の声が聞える。
 
 「言葉に出さなければ、何も伝わらないからですよ。」

近所の教会の鐘が鳴る。それは木霊する建物もなく、広く広く鳴り響く。

 「言葉に出さなければ、何も伝わらないからですよ。」

 男は立ち上がった。店主は彼の眼を追うように見上げる。

 「言葉に出さなければ、何も伝わらないからですよ。」
 
この一言は、男の心中に深く染み渡り、何度も再生され続けた。

 「言葉に出さなければ、何も伝わらないからですよ。」

 もうこれしか考えられない。この仮説以外に、何も無い。

 「言葉に出さなければ、何も伝わらないからですよ。」



 
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