短編小説

□Einem Roten Kugelschreber
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ボールペンというものは、ノックの際、結構な音を立てるものだ。今、赤いボールペンのインクが切れ、彼は人生を全うしたらしい。過酷な日常だったな。けれど赤が無いのでは、支障なくことが進むことはまずありえない。それは、シャーペンと赤のボールペン、黒の万年筆しか持ち歩いてないオレにとって、授業のノート取りが困難を極めることを意味しているからだ。こういうと多くの人が「隣の奴から借りればいい」と思うだろうけれど、誰もオレなんかに物を貸してなどくれない。ましてや隣が女子となれば尚更。したがって、後でノートを借りて写すなんてのも選択肢にない。でもこの責任は紛れも無くオレ自身にある。だって、オレが新しいペンを買い足すのを忘れさえしなければよかったからだ。
ボールペンというものはまた、寿命を如実にインクカートリッジに示すものだ。インクの赤がペンの先端のゴム部分(指で持つ部分だ)に隠れたのに気付いたとき、新しいやつを買って筆箱に入れてきた。税込み一本105円。2ヶ月もすれば世代交代の消耗品だ。年間何万本生産されているんだろう。少なくとも、日本人1人当たり年間1本程度にはなるだろうな。別に壊れたり失くしたりしても、後悔する人間はごく僅かだ。でもゼロではないと言える。オレがそうだからだ。105円はたいした額じゃない。けれど、使い切りもしないで見捨てられるのは、少しばかり酷いと思う。消耗品なのは、彼もオレも了承済みだ。全てのボールペンに誠意を示すのは不可能だ。だが、オレが自分の手で書店の商品ケースから選んだやつくらいは、どうしても。
オレは渋々シャーペンで板書を写し始めた。随分進んでる。遅れを取り戻すには苦しくて、今聞いて理解するには難しすぎて。でも、オレみたいな出来損ないにはノートを追いつかせるしか選択肢はない。黒板を見て、ノートに書き込んで。そしてやっと教師の手が止まるころにはどうにか追いついた。そして気付いた。黒い活字にグレーのシャーペンで、何が書かれていてどこが重要なのかさえもわからないノートの完成に。それと、たった105円の赤ボールペンの不可欠さに。
ボールペンというものは、人類の偉大な産物だ。オレが生まれた頃には当たり前に存在していて、なのに他の発明品ほどは恩恵がられていなかった。某インターネット百科事典(頭の堅い方)によると、その歴史は19世紀後半のアメリカ人の着想から始まり、その後暫くは西洋人により開発された。そして戦後日本の文具メーカーが世界初の水性ボールペンを開発。公文書には好まれなかったり高価だった時期もあったが、広く普及しお役所にも並ぶようになった。また、別の某インターネット百科事典(ユーモアに満ちている方)では、あるヨーロッパの国の言語にして検索すると、兵器の説明が出てくる。確かに、その言語ではボールペンという平和な社会貢献者のイメージが湧くのは極めて厳しい。雑談を始めた教師は眼中から外し、オレは、今は亡きボールペンをノックする。いい音だ。思わずそのままモールス信号の1つや2つ、打ったっていいだろう。誰も、わかんないだろうし。
DAREKA RAKARU?
英文で打ちたいけど、英作文なんてできない。もし誰かに聞かれてたら、すごい恥ずかしい。
「おい藤川、問3の答え!」
はっとして顔を上げた。これは間違ったらもっと責められる。問3の問題を見る。4択だ。選択なんだし早く答えろって思ってるに違いない。けど全くわかんない。でも、クラスメイトの圧力だけは感じる。どうにでもなれ。正答率の一番高そうなBと答えようとした時だった。カチカチというボールペンのノック音が聞えてきた。それも、信号として。
    DISPLEASED
四択のうちに、この単語があった。意味は確か……「不快にする」の過去分詞。オレが答えられないこととオレのモールス信号に対する感想かもしれない。もしかしたら、モールスですらないかもしれない。でも、これにかけてみようと思う。
「C……です。」
どうやら正解だったようで、授業は継続した。
 それにしても、さっきの助け舟の主は誰なんだろうか。近づきたい。けれど、最初の信号の送り手がオレだと知っていたら答えを教えなどしなかったに違いない。救世主が誰か分かっても、オレだと言い出さないほうがいいに決まってる。これだけでも、十分美味しい出来事だ。
 しかし、授業の終盤、オレの耳はもう一度信号を捕えた。急いでノートの端にメモした。
    At five thirty In this classroom
5時半ともなれば、生徒はほとんど部活中だ。勉強するやつは図書館か塾に行くし、そうそうこの時間まで教室に残っているやつもいない。ということは、返信主が分かる。
 
そして約束の5時半。勇気を出して、オレは教室に残り続けた。誰も来ない。きっと、オレだと分かって帰ったんだ。なにやってんだろ、オレ。自分の身分を弁えろ。自分に言い聞かせた。鞄を持って教室の廊下を出た。インクの切れた赤ボールペンを右手に握り締めて。どうしてか涙がにじみ出てくる。期待すること自体間違っていたのに、落胆してる。だからオレはバカなんだ。いい加減自分の身の程を知れ。
いろいろ悔しくて生徒玄関まで俯いたまま早歩きした。涙目を誰にも見られたくなくて。そして廊下の交差点を横切ろうとしたとき、目の前に伸びる走る影に気付いた。そちらを窺う。もう、どれだけ馬鹿にされてもいい。涙目でぼやけた視界に現れたのは、オレとは正反対の人気者のクラスメイト。凛々しい容姿に親切な言動、そしてスポーツ万能かつ成績優秀。漫画みたいな設定の上に、人柄も評判がいい。実は、ちょっと憧れてたりもした。誰からも尊敬されて、一目置かれて、ちやほやされて。一日だけでもいいから、彼の視点に立ってみたかった。
 ごめん。本当にごめん。送り主がオレだって分かって、がっかりしたよな。関わりたくもないよな。分かってる。だから……このまま帰るから、何も無かったことにしてくれ。気のきくお前なら、わかってくれるよな。
オレは彼の脇をすり抜けるように生徒玄関へ向かった。さっきにも増して早足で。
「藤川。」
背後から呼ばれた。それはもちろん彼。振り返るなどできなかった。暫くそのまま俯いていると、
    Hokanimo Wakaruhito Irutowakatte Ureshii
Mata Okuttemo Iika
欧文モールスを使って日本語が返ってきた。きっと、オレが和文モールスを覚え切れてない上に英語がさっぱりなのを察してくれたんだろう。そう思いたい。せめて、礼を言いたい。
 涙目でオレは救世主に振り返った。もう涙が流れてる。でも、声が出ない。
    Thank you  I am glad
右手でボールペンをノックした。すると彼も、右手のボールペンをノックし返した。
    I am sorry to be late
そして全く理解できないでいるオレに、
「よろしく。」
と言って、彼は帰った。

 翌日から、オレ達はこっとりと信号を送り合った。直接面と向かって話すなんてできないけれど、これだったらできる。誰からもよくされている彼がその中からオレを選んでくれた気がして、とても嬉しかった。
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