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□冬の旅
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 それ以来、彼とは短い周期で定期的に会うようになった。わたしがお店に行くこともあったし、彼から連絡をもらって会うこともある。
 いまだに不思議で仕方ない。
 彼はなぜわたしを誘ってくれるのだろう。
 お互いに口数が多くはないので、会話というものがあまりない。唯一の共通点は本が好きということ。それについては、ぽつぽつと意見を交わすし、本の貸し借りもする。
 ただ、好みの傾向が違うので、同じ作家の話で盛りあがるようなことはない。
 彼は歴史やSFに詳しく、わたしは純文学とミステリが守備範囲。わたしの場合は、ほかの分野を毛ぎらいしていたわけではなく、どこから手を付けたらいいのかわからずにいただけなので、未知の分野への水先案内人の出現は歓迎すべきことだった。
 けれど、彼はどうだろう。
 反応が薄いのでわからない。退屈ではないだろうか。
 わたしは人と一緒に過ごすことに慣れていない。身内もなく友人もごく少なく、仕事以外はたいてい部屋で本を読んで過ごす。唯一の外出は図書館へ通うくらいだ。
 けれどもわたしは全然退屈ではないし、一日じゅうだれとも口をきかない日があっても平気だった。
 有架にいわせると、わたしの生活は恐ろしく孤独で狂気の沙汰らしい。二十二歳の娘の暮らしぶりとはとても思えないそうだ。
 だから彼女は必死にわたしを外へ連れ出そうとする。彼が働くお店へ出かけたのも、有架の心遣いによる外出の一環だった。

 ひとりでいるからといって、それが必ずしも孤独だとはわたしは思わない。そもそも、孤独というものがわたしにはよくわからないのだ。楽しい嬉しい悲しい痛い。そういう明確な感情や感覚とは異なるもののように思う。もっと漠然とした、言語化できない、他人と共有することのかなわないなにか。そんな感じがする。
 でも、それは誰もが常に内に秘めているものではないのだろうか。特異な状態とは思えない。
 寂しい、という感情に似ている。
 彼は早くに両親と別れてひとりで暮らしてきたらしい。
 そういう話をするようになったのは、ふたりで会う習慣が定着して、互いの部屋を行き来しはじめたころだった。
 彼に関する情報も少しずつ増えてきて、表面からは窺い知ることのできない意外な一面を垣間見る機会もあった。
 実はかなりの甘党で、冷蔵庫にはチョコレートが常備されていること。動物が苦手でとくに鳥類はいけないということ。
 お酒が好きではないということ。

「酒場で働いているのにおかしいだろ」

 自嘲するでもなく、あっさりと彼はいった。

「飲めないわけじゃない。今の仕事は自分に合ってると思う。あの店に来る人間は、楽しむために酒を飲む。そういう風景を眺めるのは悪くない。でも、おれはそういうふうに酒を飲むことができないんだ」

 よくわからなかった。だからわたしは黙って彼を見ていた。
 彼はいつもまっすぐに相手を見る。ちょっとたじろいでしまうような強い眼差しだ。それは今も変わらない。
 初対面のとき、わたしが気に触るような不躾な視線を向けてしまい、彼を怒らせたのだと後悔したことがあった。だがそうではなく、彼はもともとそういう目付きなのだった。それを知ってわたしは安心した。
 彼は強い眼をしたまま続けた。

「おれ、左耳が聞こえないんだ」
「え」

 わたしは聞き返した。
 彼は同じ言葉をくり返すと、淡々とした口調で説明をする。

「子どものころ、酔って暴れた父親に殴られた。それだけだ。それだけで、この耳は機能を失った。おれの父親は最低だった。酒で憂さを晴らそうとする卑怯な男だ。それで命を落とした。自業自得だな」
「そのせいでお酒を?」
「それもある。いやな記憶がまとわりついているから」

 そういって彼は少し黙る。沈黙がおりた。しばらくしてから彼はつぶやいた。

「おれも最低だった。父親と同じようなことをした」

 驚いて、わたしは目を見開いた。一瞬彼は視線を逸らしたが、すぐにもとに戻した。

「酒を飲んだわけじゃない。素面で暴れたんだ」

 想像がつかず、わたしは首を傾げた。

「今考えると馬鹿みたいだが、学生時代はこの左耳を過剰に意識していた。自棄になっていたんだ。目付きが気に入らんとか態度がでかいとかで、やたらと喧嘩を売られて、それを片っ端から買っていった。不思議と負けることはなかった。守るものがないから手加減もしない、そのせいだろう。気が付くと、まともな人間はおれに近寄らなくなっていた。当然だ。おれは父親と同じことをしていた。自分が持て余した感情をだれかにぶつけることで処理しようとした。卑怯で、愚かで、弱い人間だ」

 彼が一度にこれだけの言葉を発するのははじめてのことだった。
 わたしはなにもいえずに彼を見ていた。彼がわたしの目を覗き込む。頭のなかを見透かすような、冷めた眼差し。

「おれが怖くないか」

 ささやくように彼は尋ねる。

「……、わからない」

 正直にわたしは答えた。
 わたしは人から暴力を振るわれた経験はないし、だれかを殴りたいという衝動に駆られたこともない。だから、彼の話を聞いても現実感がなかった。わたしは聞き返した。

「今も人を殴りたい?」

 彼は自分の手に視線を落とすと、迷いのない声でいった。

「いや、もう思わない。今はもう」

 それは偽りの言葉ではないとわたしは思った。



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