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□冬の旅
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わたしと彼のあいだには、常に一定の距離が保たれていた。精神的にも肉体的にも。まるで高速道路を走る車のように、互いに慎重に距離を測っていた。
恋愛に関してわたしはまったくの初心者で、そのために必要以上に臆病だった。彼は彼で、生身の人間と深く関わりを持つことにためらいがあったようだ。
接近しては身を退いて。
何度もそれを繰り返した。
近付かなければ安全だ。今までどおり、なにも変わらず平穏な日々を送ることができる。自分のことだけを考えて生きていけばいい。
そうわかっていた。
それなのに。
差し出された手を、わたしはそっと掴んだ。あたたかい手だった。
こうして、わたしと彼の人生は一時的にしろ交わった。わたしの生活に大きな変化はないけれど、彼という存在が確実に一角を占めている。その事実に戸惑う。
そして時は過ぎゆく。
彼と出会ってから季節は一巡した。今は晩秋。冬はもうそこまで訪れている。
いつの間にか、月の光が差し込む角度が変わっている。
まだ眠れそうもない。
炬燵もあたたまったことだし、このままぼんやりと夜明けを待つのも悪くない。そう思っていると、ふいに彼がむくりと起きあがり、こちらへやって来た。足取りは安定している。寝ぼけているわけではないようだ。隣に座る。
「眠れないのか」
ものすごいしゃがれ声で彼が尋ねる。わたしは小さくうなずいた。
「ごめん、起こして」
「いや」
短く応えて、彼はテーブルの上に置いてあった煙草の箱に手を伸ばす。ゆっくりとした動作で煙草をくわえて火をつける。
彼が煙草をくゆらすときの、少し疲れたような横顔がわたしは好きだ。
「なに」
煙そうに細めた目でわたしを見る。
「ううん。なんでもない」
「おれのせいか」
「え」
「眠れない原因」
わたしは言葉に詰まる。彼は淡々とつづける。
「困らせてるのか」
「そうじゃない」
あわてて首を振る。そうじゃないけれど。
「一緒に暮らさないか」
今夜、久しぶりに会った彼からそう切りだされた。驚いた。
わたしと彼はそれぞれ昼と夜の仕事なので、なかなか時間が合わない。会うことはできても、ゆっくり過ごす時間はほとんどない。彼はそれを気にしてくれていたらしい。
「返事はすぐにしなくていい。考えてみてほしい」
そういわれて、わたしはこくりとうなずいた。
それが数時間前のできごと。
たぶん、わたしは動揺しているのだ。こうしてふたりきりで過ごすようになってからも、彼は一度もわたしを好きだとか、好意を言葉にしたことはない。ただ、態度や仕草から、好意を持ってくれているのだろうなと感じるだけで。
一緒に暮らしてもいい、と考えるほど想ってくれているとは知らなかった。
「ありがとう」
「ん?」
驚いたように彼がこちらを見る。
「誘ってくれて、嬉しい」
彼があまりにじっと見つめるので、わたしは目を伏せてしまった。隣で大きく息を吐くと、彼はぽつりとつぶやいた。
「それはよかった」
煙草を持っていない方の指でくしゃくしゃと髪を掻きまわす。珍しい仕草だ。
「反応がないから、困らせたかと不安だった」
「え」
不安、という言葉が彼の口から出てきたことに驚く。
「そう、なの?」
「そうだよ」
「ごめん」
「いや」
「あのね、」
「うん?」
彼の視線はまっすぐにわたしを捉えている。はじめて会ったときと同じように。
「わたし、もうずっとひとりで暮らしてきたから、ひとと一緒に生活できるかどうか」
「それはおれも同じだ」
あっさりと彼はいう。
そうだった。
吸い殻を灰皿に捨てて彼はつづける。
「ひとつずつ、不安を解消していけばいい。ひとりで抱えても仕方ない。ふたりのあいだのことだろう」
なんでもないことのようにそういう彼を、わたしはまじまじと見つめ返した。
ひとりで考えてひとりで答えを出す。それ以外の方法があることを、わたしはまったく意識していなかった。でも、彼のいうとおりかもしれない。ふたりでいるのに、なにもかもをひとりで考えてしまうなら一緒にいる意味がない。それはなんだか悲しい。
そんなあたりまえのことに、どうして今まで気付かなかったのだろう。
「なにかいいたそうだな。話せよ」
「なにから話せばいいのかわからない」
「なんでもいい」
二本目の煙草をくわえながら彼はうながす。
「全部聞くから。夜が明けるまでまだ時間がある。付き合うよ」
「うん」
冴え冴えとした月が地上を照らす夜。白い光が差しこむ部屋のなかで、わたしと彼は、途切れ途切れに話をつづけた。
静かに夜は過ぎてゆく。
−終−
→あとがき
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