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□運命の人
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背後で玄関のドアが開いた。鍵をかけるのを忘れていたらしい。母親は仕事に出かけていて深夜まで戻らない。振り向くと、見知らぬ男が立っていた。考えるまでもない。母親の相手だろう。
「母さんならいない」
「そうだろうな」
がっしりとした体格の、おそらく四十代なかばくらいだろう男は、母親の不在を知っていたかのような返事をして勝手にあがり込んできた。
「なんだよ、帰れよ」
後ずさりながら睨みつけるおれに、下卑た笑いを浮かべて近付いてくる。
「かわいい顔してつれないこというなよ」
いやな予感がして全身が総毛立つ。まさかこいつ。足元の布団につまずいて仰向けに倒れたおれに、すかさず男がのしかかってくる。
「へへ、母親よりよっぽどかわいい顔してんじゃねえか」
顔のことをいわれるのは好きじゃない。ましてやこんな男にはいわれたくない。
「離せよっ」
叫んだとたん、ものすごい力で頬を張られた。衝撃で目の前が真っ赤に染まる。
「おまえはただ泣いてりゃいいんだよ」
そう怒鳴って男はおれのシャツを引き裂く。あらわにされた肌をごつごつした手が這いまわる。気持ちが悪い。
おれは母親とは違う。
こんなやつに。
抵抗するたびに容赦なく殴られて意識が霞んできた。やばい。このまま、こんなやつの思いどおりになるのか。いやだ。絶対にいやだ。
心が折れそうになる。
泣くもんかと食いしばっていた力がゆるむ。いやだ。いやだ。
「海里っ!」
叫んだ瞬間。
おれの身体に覆いかぶさっていた男が吹っ飛んだ。壁に叩きつけられる鈍い音がして、呻き声が聞こえた。それから、耳を塞ぎたくなるような生々しいいやな音がして、男の悲鳴が聞こえなくなった。
蛍光灯を背にして、だれかがおれを覗き込む。
「遅くなってごめん。ひとりでよくがんばったね、孝太」
その声を聞いたとたん、ぶわっと涙があふれ出した。視界が歪む。恐怖のあまり、感情を繋ぐ回路がおかしくなったのか、安心して、急に笑いたくなった。
呼んだらほんとうに助けに来るとか、おまえ、ヒーローかよ。
海里は、泣きながら笑うへんなおれを抱きあげて部屋から連れ出すと、さっきあとにしたばかりの海里の家に戻った。
そのままバスルームへ連れていかれ、引き裂かれてぼろぼろになったシャツと一緒に、身につけていたものを全部脱がされる。
「ちょっと染みるだろうけど我慢して」
頭からシャワーのお湯をかけられ、うがいをするよううながされる。殴られたときに、唇の端と咥内を切ったみたいで、ものすごく染みた。我慢してうがいをすると、吐き出したお湯が真っ赤に染まっていた。でも、幸いなことに歯は折れていない。
発作的な笑いの波が治まるとどっと疲労感が押し寄せてきて、丁寧に全身を洗ってくれる海里におとなしく身をゆだねることにした。
いい匂いがする清潔なパジャマを着せられて、二階の海里の部屋に運ばれる。冷房が効いた快適な部屋のベッドに寝かされ、肌触りのいいタオルケットをかけられる。
「もう大丈夫だから。安心しておやすみ」
そうやさしくささやかれて、また涙があふれてきた。おれは我慢するのをやめておおっぴらに泣きじゃくった。
「あ、あんな、やつに、さ、触られ……気持ち悪い、やだ」
「きれいに洗ったから、もう大丈夫だよ」
おれはふるふるとかぶりを振る。
「か、感触が、まだ、残ってる」
肌を這いまわる手。生温い舌で舐めまわされた感触が離れない。
タオルケットがめくられ、海里がベッドにあがってきた。隣に身を横たえて、おれの身体を抱き寄せる。反射的にびくっと震えたおれを、きつく抱きしめる。
「かい、り?」
「こわい思いをさせてごめん」
頭のうえで海里が謝る。
「やっぱり孝太を帰すんじゃなかった。そばにいればよかった。もっと早く助けに行けばよかった」
海里の声が震えている。おれはまた小刻みに首を振った。
「ち、違う、海里は、助けてくれた」
今日だけじゃない。
思い出したくもないけれど、子どものころからおれはへんなやつに狙われることが少なくなくて。歳のわりに小柄でおとなしそうに見えるらしくて、そういう、歪んだ欲望の対象としてとらえられてしまう。そんな変質者たちに襲われるたび、いつも海里が助けてくれた。
そう、たとえ、たまたま離れていたときでも、海里はかならず助けにきてくれた。ほんとうに、ヒーローみたいに。
「海里、むかしっから、おれがピンチのときには、絶対に助けにきてくれたよな。なんで? おれが危ない目にあってるって、わかるはずないのに」
「わかるよ」
「へ?」
「なんでかな。孝太がぼくを呼んでるのがわかるんだ。どこにいるのかも、全部」
いやいや、ありえないだろ、そんなの。
泣くのを忘れてぽかんとしていると、海里がおれの顔を覗き込んできた。
「孝太は、ぼくの運命のひとだから」
…………は?
「って、ぼくは信じている」
なんか、さりげなくものすごいことをいわなかったか、今。
「孝太を守るために強くなったつもりだったけど、こんな怪我までさせて。ごめん」
強くなったって……、え、まさか。
「まさかとは思うけど、おまえ、小学生のとき、急に空手習いはじめたのって」
「もちろん、孝太を守るためだよ」
海里はなんでもないことのようにあっさりと答える。
ありえないだろ。馬鹿だこいつ。