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□それは恋、もしくは愛
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 咲は、ひとことでいえばそそっかしい。ものを覚えるのが苦手だし、ちょっとしたことですぐに動揺してしまい、ふつうならありえないような失敗をやらかしてしまう。
 働きはじめた当初は、それはもうひどいものだった。人の好い店主に代わって、気の強いおかみさんからはさんざん怒鳴られて叱られたものの、あれでよくクビにならなかったと思う。当時を思い返すだけでも冷や汗がにじむ。
 最近ではだいぶ要領を掴んできて失敗することは減ったが、それでも忙しいお昼どきや夕方にはとくに気が抜けない毎日を送っている。


 *****


 午後八時。
 なんとか粗相もなく一日を終えて、咲はようやくほっと肩の力を抜いた。
「お疲れさん、咲ちゃん」
「お疲れさまです」
 おかみさんの笑顔を見て、咲は安心してふにゃりと笑う。とたんにほっぺたをひっぱられた。
「はうっ」
「あー、咲ちゃんの笑顔を見ると癒されるぜ」
 おかみさんはいつもの男前な口調でそんなことをいいながらきれいな顔で笑う。台詞と仕草が合っていない。
 意志の強さを表すようなきりりとした目許、端整かつ華やかな顔立ち。同性である咲が見てもどきどきするような美貌の持ち主で、このおかみさんほどきれいなひとを、今までほかに見たことがない。舞台に立って人びとを魅了するのが似合いそうなひとなのに、三角巾とエプロンを身に着けて片手にお玉や菜箸を持っていても、それだけで絵になるのだからすごい。
 おかみさん、と呼ぶのも憚られそうな女性だが、「あたしのことはおかみさんと呼んでくれ」と本人からいわれたのでそれに従っている。
 この美人なおかみさんは十代のころ、本人いわく「若気の至り」で「ちょっとぐれていた」らしい。詳しいことはこわくて聞けないが、「そのころから比べるとだいぶまるくなった」というものの、今でもその言動の端々に当時の名残が見られる。
 そんなおかみさんのまえで失敗して怒鳴られるのは本当に恐ろしいが、家を追い出されそうになって途方に暮れていた咲を助けてくれたのはこのひとで。
 感謝している。感謝しているけれど、痛いものは痛い。
「おひゃみひゃん、いひゃいれす」
 涙目になって訴えていると救世主が現れた。
「なにやってんだよ」
 白地にでかでかと黒い髑髏が描かれたパーカーを着た少年が出入口に立ち、呆れたような目で咲たちを見ている。
「うるせー邪魔すんな草太」
「邪魔はどっちだよ。店終わったんだろ。咲送ってくから寄越せ」
「まー生意気! 咲ちゃんを呼び捨てにするなんざ百年早いぜこのヒヨッコが」
 勃発しそうな親子喧嘩を制したのは店主の穏やかな声で。
「はいはいそこまで。咲ちゃんお疲れさま。これ、今月のお給料ね」
 ようやくほっぺたを解放された咲は店主から差し出された封筒を受け取る。
「ありがとうございます」
 待ちに待った封筒を握りしめて顔をほころばせる咲の襟首を掴んで、草太と呼ばれた少年がぶっきらぼうにいう。
「ほら、とっとと着替えてこい。給料落とすなよ」
「はいっ」
 母親譲りの鋭い目で睨まれて、咲はあわてて休憩室に向かった。
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