子羊は夜の底で夢を見る
□第四夜
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羽野明日香は幼いころから、自分の嗜好が他人とは著しく異なっていることに気付いていた。
そして、それが周囲にすんなりと受け入れられるものではないということも、うすうすわかりはじめていた。
ただ、姉だけは、明日香の嗜好をおもしろがって、進んで協力をしてくれた。明日香と姉は双子でもないのに、瓜ふたつといっていいほどそっくりな容貌をしていた。
その姉は病弱のため学校も休みがちで、外出することはほとんどなかった。だから、明日香の存在が少なからず慰めとなったのだろう。
最初にいたずらを思いついたのは姉だった。明日香が姉になりすまして学校へいく、というものだ。もし発覚しても、子供のいたずらという程度で処理されるだろうとふたりは考えた。
はたして、それはうまくいった。見破られる気配はまったくなかった。
このいたずらは姉の気に入り、たびたび繰り返されることになる。中学、高校と進学しても、それはつづいた。明日香と姉は互いに親しい友人もいなかったので、疑われることもなかったのだろう。
明日香は姉のふりをしているときも、いつもと同じようにふるまった。
もともと無口で人と言葉を交わすことはめったになく、休憩時間は本を読んで過ごす。姉の姿をしているときは多少注意を払ったが、やがてそれも自然に行うようになった。
そうして学校から帰宅すると、一日のできごとを姉に話して聞かせる。とりたてて目新しい話題があるわけでもないのだが、それでも姉はいつもにこにこと楽しそうに明日香の報告に耳を傾けていた。そういう姉のようすを見るのが明日香は好きだった。
水沢唯と出会ったのは高校のときだ。
唯はクラスメイトで、いつもひとりで本を読んでいるようなおとなしい雰囲気の少女だった。だれとでも話すが、だれとも親しくはない。不思議な距離を保って人と接する人物だと思った。
彼女は書店でアルバイトをしていた。その店を明日香はよく利用したので、ときどき言葉を交わすようになり、だんだんと親しく交流するようになった。
卒業後も付き合いはつづいている。
唯の読書量は半端ではない。そしてそれらをきちんと吸収している。話していると、そのことがわかる。唯とふたりで本について語るのが明日香は好きだ。とても楽しいと思う。
他人と一緒に過ごしたいという欲求を、はじめて感じることができた。
姉も唯の話を聞くのを好んだ。
明日香が特定の人物に関心を持つことは珍しく、その度合いが高まるにつれ、姉の心中でも唯の存在が大きくなっていくようだった。
それと同時に、姉は悲しそうな表情を見せることが多くなり、妙にしんみりとしたようすで明日香に謝ることがあった。
明日香は姉に感謝こそすれ、謝罪されるような心当たりはない。しかし理由を尋ねても姉は答えてくれなかった。
その姉はもういない。
唯に会いたいといっていたが、その望みはついに叶わなかった。
今でも明日香はときどき姉の真似をつづけている。姉の服を着て、姉のようにふるまう。鏡を覗くと、姉がそこにいるような錯覚に陥ることがある。明日香のそういう性癖を、唯は知らない。
姉が明日香に謝っていた理由を、今なら察することができる。
唯は、明日香を本物の羽野明日香だと思っている。
だが、そうではないのだ。
羽野明日香は姉の名だった。
姉になりすましてたびたび通った学校で、明日香は唯と出会ったのだ。
これまで通り唯と友人でいるなら、偽者の明日香はほんものの明日香として存在しなければならない。それは決して難しいことではない。
しかし、自分のほんとうの名を告げることは許されないし、親しくなればなるほど、唯を偽っているという思いは強くなる。
それでも、唯から離れるつもりはなかった。
おそらく姉は、明日香がそういった葛藤に苦しむことを見越して、このいたずらを持ちかけた責任を感じたのだろう。その必要はないのに。
明日香は自ら望んで姉の代役を演じたのだ。そしてなにより、明日香は良心の呵責に耐えかねるというほど善良な人間ではない。その点を姉は買いかぶっていた。
明日香は貪欲な人間だ。そしてしたたかだ。
唯を失いたくない。そのために彼女を偽りつづける。いつか真実を知ったとき、唯は明日香を嫌悪するだろう。どれほどのショックを与えるかもわからない。
弁解する気はない。すべてを引き受けようと明日香は思う。
唯は大事な友人だ。それだけは偽りのない事実。もし彼女に害をなすものがあれば、明日香は迷わずそれを排除するだろう。かならず。