子羊は夜の底で夢を見る

□第十夜
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 見覚えのある車が駐車場に入ってきた。明日香の車の隣に停まり、運転席から水沢薫が現れる。その手には唯のバッグがあった。
 彼は運転席の窓を指で叩いて、明日香に外へ出るようにうながす。明日香がドアを開けると、膝のうえにバッグが投げられた。
「なかに鍵が入っている。おれが唯を運ぶから、あんたは部屋のドアを開けてくれ」
「わかった」
 薫は助手席へ回り、眠ったままの唯を抱きあげる。先に行くよう顎で示されたので、うなずいて歩き出す。
 水沢薫に背を向けるのは少し緊張した。彼の両手は塞がっているので背後からいきなり攻撃されることはないだろうが、得体の知れない相手に背を見せるのは勇気が必要だった。
 なにごともなく部屋に入ると、薫は器用に襖を足で開けて、奥の寝室らしい部屋へ唯を抱えていく。明日香は炬燵のうえにバッグを置いて、所在なく立っていた。
「手間をかけたな」
 唯を寝かせてきたのだろう。後ろ手に襖を閉めて彼はいった。明日香は黙って首を横に振る。彼はじっと明日香を見据えて言葉を繋いだ。
「今日のことはもう忘れろ。あんたはなにも知らない。なにも見なかった。そうだろう?」
 うなずくのはたやすいことだ。明日香はものごとに執着しない。ただひとつ、唯を除いては。
 だが、そうするまえに明日香は聞いていた。
「ノーといったら、私を殺す?」
「さあな。だが、あまり利口な選択じゃないと思うぜ」
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
「なんだ」
「どうして木島のことを知っていたの」
 薫はすっと目を細めた。視線を逸らさずに明日香は彼を見つめ返す。目を逸らしたら喰われるような気がした。
 しばらくの沈黙のあと、低い声で彼は答える。
「たとえば、どうしてもこの世から抹殺したい人間がいるとする。だが自分では手を下せない。そういうときに、その意思を代行するビジネスがある。まったく、世のなか、至れり尽くせりだな」
「あなたがそれを?」
「そういうことだ」
 驚いた。それはつまり、俗にいう殺し屋、暗殺者というやつではないのか。そんなものは物語のなかだけの存在だと思っていたが、そうと聞いて妙に納得できる部分もあった。
 水沢薫の正体。
 そして、それは同時に、木島を抹殺したいと願っていた人物が存在するということだ。
「じゃあ最初から、木島を狙っていたということ? あの夜も」
「そう、はじめから、あんたとは利害が一致していたわけだ。今後、あんたが唯に危害を加えるつもりがなければ、の話だが」
 喰われそうだと感じたのは気のせいではなかった。彼は獲物を観察する目付きで明日香を見ている。
「羽野トキオ」
 名前を呼ばれる。この姿のときには絶対に呼ばれることのない、自分のほんとうの名前を。
「あんたに女装の趣味があるのはべつにかまわん。見苦しくはないし、正直、まともに出会えばおれにも見破る自信はない。唯は知っているのか」
「唯は知らない。なにも」
「あんたは唯を騙しているのか。名前だけじゃなく、性別、人格までも?」



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